2-2【イェキュブの残した禍根】

 次の日。


 再びその身を狙われたということもあり、エスティラは一日屋敷に留まることとなった。

 屋敷の内外や港町には兵士の見回りが入ったことで、普段穏やかなロントゥーサ島には物々しい空気が漂っていた。

 とはいえ、島民の大半は魔獣騒動にだいぶ慣れてきたせいか、普段と変わらぬ日々を過ごしている。


 屋敷の使用人たちもそれは同じであり、例え魔獣の危険があろうとも屋敷を健全に保つ義務がある。

 庭師は草花や芝生を手入れし、キッチンは常に仕込みに追われ、使用人たちは各々割り当てられた役割をこなす。


 アデーレの今日の仕事は、エスティラが書いた書状を毎日定期的にやってくる配達員に渡すことだ。


「それでは、よろしくお願いいたします」


 門前で書状を渡した配達員に向けて、深々と頭を下げるアデーレ。

 配達員も彼女に対し一礼した後、そのまま港の方面へ向けて走り去る。

 その後姿が坂の向こうに見えなくなるまで見送った後、アデーレは小さく肩をなでおろすと屋敷の方へ戻る。


 門番が詰めている平屋の横を通り過ぎ、前庭を進みながら空を見上げる。

 冬のどこか高く感じる青空に、雲が連なって浮かんでいた。


「お疲れ様ー、アデーレさん」


 突然来た方向から声をかけられ、アデーレはゆっくりと背後を振り返る。

 そこには珍しく私服の黒いドレスを身にまとった先輩使用人、ラヴィニアの姿があった。

 キャップを被っていないツインテールという彼女の姿は、初めて見るアデーレには新鮮に映った。


「お疲れ様です。外出していたんですね」

「ううん。私だけ今日島に戻ってきたんだー。ちょっと用事があって」

「用事、ですか?」


 両手で持った革のカバンを持ち上げるラヴィニア。おそらく中身は最低限の私物だろう。

 そして少し照れくさそうに笑うラヴィニアを前に、アデーレはわずかに首をかしげる。


「実は お姉ちゃんの結婚式があってね。私は仕事があるからーって言っておいたんだけど、お嬢様が行きなさいって言ってくれて」

「それで今日戻られたんですね。おめでとうございます」


 ゆったりした口調で「ありがとう」と言い、軽く会釈しながらはにかむラヴィニア。


 それにしても、この貴族らしからぬ計らい実にエスティラらしい。

 というより、この場合は行かないと逆に厳しく叱られかねないだろう。


「じゃあ、久しぶりにご家族に会えたんですね」

「うん。本島の村にいるんだ。大体三年ぶりかなぁ」


 シシリューア本島は共和国で最も広い島のため、沿岸や内陸にいくつかの町や村、集落が点在している。

 そういった場所の出身者が、仕事として使用人を選ぶことは珍しくない。


 勤め先もそれなりに多いため、使用人はロントゥーサ島よりもずっとポピュラーな職業なのだ。


 そんな世間話をしながら前庭に敷かれたレンガの道を進む二人。

 やがて屋敷へと辿り着くと表玄関へと続く階段には向かわず、屋敷左側面に設けられている使用人達が使う裏玄関へと向かう。


 屋敷の右側は日当たりの関係で庭が設けられており、日陰になるこちら側に裏玄関が用意されている。

 裏玄関を抜けるとキッチンや食糧庫の前に出られるようになっており、また傍にある使用人用の裏階段からは上階へと素早く移動することも出来る。

 キッチンより奥には使用人の控室があり、また普段アデーレ達が睡眠をとる寝室は屋根裏だ。


「それじゃあ私は荷物置いてくるねー」

「はい」


 アデーレに向け手を振り、階段を上っていくラヴィニア。

 歩調に合わせて揺れるツインテール。

 その明るいグレーの髪を見ていたアデーレの脳裏に、ベルシビュラの銀色に輝く髪が思い浮かんだ。


(何考えてるの。ラヴィニアさんは今日帰ってきたって言ってるのに)


 頭に浮かんだ疑念を払うように頭を振り、アデーレは小さくため息をつく。


「もう、吹っ切れたつもりだったんだけどな」


 誰に言う訳でもないアデーレの言葉が廊下に虚しく響く。

 力なくうなだれるアデーレの脳裏には、無残な形で命を落としたアメリアの亡骸が鮮明に浮かぶ。

 それによって生み出された疑心暗鬼は、今もなおアデーレの心に残り続けているのだ。


 魔女がそういう手段を用いる存在であることは明白で、そういった警戒心が必要な事を彼女も理解している。

 しかしそれを思うたびに、アデーレは苦痛にも似た表情を浮かべてしまう。


 たかが半年。されど半年。

 超常の力を得て人々を守る決意をした戦士は、まだまだ未熟だった。


 そんな自分の弱さを痛感していたその時、目の前のキッチンに続く扉が音を立てて開く。


「ん、ここで何してんだい?」

「あっ。ど、どうも、スィニョーラ・ステンダル」

「だからスィニョーラはよしとくれって。ジェシカでいいよ」


 キッチンから出てきた、アデーレがスィニョーラと呼ぶ壮年の女性。

 身長はアデーレと同じくらいと高めで、ふくよかな輪郭に少し高めの鼻と少し強面の容姿が特徴的だ。

 白いつばのない帽子を被っており、そこから覗く白髪交じりの茶髪が彼女の年齢を感じさせる。


 また茶色のドレスと肩には白いネッカチーフをかけており、その上に着ているのは料理人の証明である白く大きなエプロン。

 そう。彼女はこの屋敷の料理を一手に引き受ける料理人コック。名前をジェシカ・ステンダルという。


 こういった屋敷において、料理担当は他の家事を受け持つ使用人から独立した立場にあり、その中でジェシカは料理担当の使用人全体をまとめる人物だ。

 立場的には家政婦と同等に当たるため、アデーレのような下の立場の使用人は敬意をこめてスィニョーラと呼ぶのである。


 とはいえ、当人はそう呼ばれるとげんなりした表情を浮かべてしまうのだが。

 だがこういったやり取りはもう数えきれないほどしているのだろう。

 短いため息をつくと、すぐに気を取り直した様子でアデーレと向き合う。


「それよりそっちだよ、アデーレ。ちょうど誰かを呼びに行かせようと思ってたところなんだ」

「私ですか?」


 うなずくジェシカに対しアデーレは首をかしげる。

 エスティラの食事に関することなど、そういった言伝がある場合にアデーレの方からジェシカの所へ赴くことはある。

 しかし受け持ちの違うジェシカがアデーレ個人に対し用があるというのは相当に珍しいことだ。


(まさか何か粗相をやらかしたとか?)


 アデーレの表情は平静を装っているが、背中を冷たい汗が流れる。


 頭に思い浮かぶのは仕事中のジェシカの様子だ。

 彼女の下で働く使用人たちに対し厳しく指示を出し、屋敷の食事一切を請け負うその姿。

 幾多の魔獣と対峙したアデーレであっても、彼女の迫力には今もなお圧倒されてしまう。


 普段の仕事ぶりからして激しいのだから、怒られた場合どのような恐怖が待ち受けるのか。

 その視線が平静なのか怒りなのかは分からないが、ジェシカの視線を受けるアデーレの口元がわずかに引きつった。


「ん、どうしたんだい? 随分表情が硬いじゃないか」

「へっ! いえそんなことは一切。はいっ」

「そうかい? まあいいんだけどね。ちょっと頼みがあるんだよ」

「え、頼み事……ですか?」


 ここでようやく、ジェシカが自分に対して説教をするつもりでないことが判明。

 まるで肩の重荷が降りたかのように力が抜け、安堵のため息を漏らしそうになる。


 だが使用人たるもの、そういった緩みを表に出してはいけない。

 すぐさま背筋を伸ばし、アデーレはジェシカの言葉を待つ。


「大したことではないさ。とりあえずこっちに来てくれれば分かるんだけどね」


 再びため息をついた後、ジェシカがアデーレに対しキッチンに来るよう手招きする。


 現在のキッチンといえば、昼食に向けた準備で慌ただしくなっているはずだ。

 だがどういう訳かそういった騒音が聞こえてくる様子がない。


 厳格なジェシカが仕事を疎かにするはずがない。

 だがキッチンの仕事が止まっていることと自分にどういった関係があるのかは一切不明だ。


「失礼します」


 ドアを開けたまま自分を待つジェシカに対し、アデーレは軽く会釈をしてから彼女の横を抜けてキッチンへと入室する。

 中には当然ながら、ジェシカの下で働く使用人たちがいた。


 白と青のひし形タイルが交互に敷かれた床と、柔らかな白色の壁。それに明り取り用の小さな窓がいくつか。

 広いキッチンの中央には大きな調理台が設けられている。

 調理台の高い位置にはボウルなどを置く棚が備え付けられており、棚の下にはへら等の器具がぶら下がる。


 入り口から向かい合って反対側のには、床と壁に耐火用の石が敷かれたスペースがある。

 そこには調理用のストーブが二台置かれ、上には銅製の鍋やフライパンなどの火にかける調理器具が置かれている。

 近くの壁にも同じような器具が掛けられており、これら全てを駆使して屋敷の食事は賄われる。


 さて、忙しいはずのキッチンがなぜここまで静かなのか。

 中にいた使用人たちは、なぜばつの悪そうな表情を浮かべその場に立っているだけなのか。


「えぇ……?」


 アデーレの視界が真っ先に捕らえたその人物。


 ストーブの前に立ち、腕組をしながら使用人たちを見つめるエスティラの姿がそこにあった。

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