第35話 次はお天気です

「うぅ……」


 翌日曜日の夜。私は自室のベッドで一人唸っていた。


 朝から机に向かったはいいが、どうにも体調が悪く、ノートの文字が頭の中を素通りしていく。頭痛と悪寒が津波のようにやってきて、三十分ほど勉強してはベッドに倒れ込み、またしばらくしたら気合いで起きるという行為を繰り返している。


 そうしているうちに気がつけば窓の外は暗くなっていた。明日から期末試験だというのに、予定は全く消化できていない。


「どう、つぼみ? 晩御飯いる?」


 部屋のドアが開いて、心配そうな母が顔を出した。


「いらない……」

「やっぱり風邪ひいたんじゃない? 熱を測りなさい」

「嫌」


 私はゆるゆると首を横に振る。


 以前部長に聞いたのだが、量子力学にはシュレディンガーの猫という思考実験があり、簡単に言うと箱の中にいる猫の生死は蓋を開けるまで確定せず、観測という行為自体が物事を確定させるという考え方があるそうだ。


 それと同じで、熱を測らない限りは、私の状態は確定しない。風邪を引いているのか引いていないのか、私は敢えてそれを明らかにせず、曖昧な状態をキープしていたいのだ。


「何を訳わからないことを言ってるの。絶対おかしいわよ、あなた」


 しかし、結局あらがう力もなく、母はぐったりした私の腋に体温計を差し入れる。


 間もなくピピッという控えめな電子音が鳴り、残念ながら今の私の状態が確定してしまう。


 三十八度八分。


 母は体温計の数字を私の目の前にかざして、溜め息をついた。


「ほら、やっぱり。明日は休みなさい」

「……駄目。明日から期末テストだし」

「こんな熱じゃ受けられないでしょう」

「受けられる。絶対受けるから」


 幸い咳はなく、試験の日はテスト以外のイベントはない。一言も喋らなければ、誰かにうつす確率は極めて低いはずだ。私だけ別室で受けてもいい。ベッドから這い出ようとする私を、母が強引に押しとどめる。


「寝ときなさい。そんなに頑張らなくてもいいでしょう。テストはまた受けられるけど、あなたの身体は一つしかないのよっ」


 母がまとう切迫感は、この時代に子を持つ親特有のものなのか、それともどんな親でも持ち合わせているものなのか、私にはわからなかった。


「……私は、頑張らないと意味がないの」


 抗議の声は弱弱しく、母には届いていないようだった。


 結局、朝までしっかり寝ること、そして朝の時点で熱が下がっていること、その二つが満たされれば試験を受けてもいいとのお達しが出た。


 母が譲歩する様子を見せないため、私は仕方なく一旦頷く。


 しかし、母が部屋を出た後、緩慢な動作でスマホに手を伸ばし、朝の四時にアラームをセットした。日が変わるくらいまではちょくちょく様子を見に来るはずだが、明け方ならば母も寝入って監視は困難なはずだ。


 十分な時間とは言えないが、最後の試験勉強の追い込みをしなければならない。


 そのまま力尽きるように寝入った私は、熱にうかされた状態で、よくわからない夢を見た。


 何もない真っ暗な空間を漂っている。海で溺れかけた時と同じように、どこが上でどこが下なのかわからず、自分の身体が浮いているのか落ちているのかも判然としない。ただ無限の暗闇を一人彷徨うのみ。


 ――そんなに頑張らなくてもいいでしょう。


 母の声がどこかから聞こえる。 


 ――相変わらず昔の政治家みたいな物言いだねぇ。


 今度は姉の声だ。


 ――つぼみをコンプするつもり満々だよ。


 耳をくすぐるような声色は葵のものだ。


 ――まだ自分の取材テーマは見つかっていないのだろう。


 次は部長の声が空間に響き渡る。


「どこ? みんな、どこ?」


 声を張り上げ、首を周囲に巡らせるが、姿は見えない。孤独感で胸が押し潰されそうになりながら、私は闇の中を泳ぐように進んだ。やがて、視界の先に妙なものが現れた。


 それはとてもなく大きな箱だ。


 見たこともないほど巨大な箱。声はどうやらそこから聞こえるようだ。


 不思議と箱の中身が何なのか、私は理解した。


 全景を捉えることすら難しいこの容れ物には、地球が入っている。


 これはシュレディンガーの猫だ。この箱の中には、これから辿るであろう複数の地球の未来が混在している。しかし、ひとたび蓋を開いて観察すれば、未来は確定してしまう。


 見たくない。知りたくない。


 だが、私の思いとは裏腹に、箱の上部がゆっくりと開き始めている。


「嫌だ。待って」


 叫んだ瞬間、何者かに腕を捕まえられ、強引に引き上げられた。


 ――大丈夫か? 何やってんだよ、つぼみ。


「……は」 


 見開いた瞳に映ったのは、見知った天井板だった。汗ばんだ額に、前髪がべったりと張り付いている。


「夢……」


 カーテンの隙間からは、薄曇りの空が覗いていた。首をゆっくり回して掛け時計に目を向ける。


 八時七分。


「あわぅ」


 自分でもよくわからない呻き声とともに、私は跳び起きた。慌ててスマホをチェックしたところ、アラームはなぜか午前ではなく午後四時にセットされている。ぼんやりした頭で設定したため、間違えてしまったのだ。


 学校の始業時間は八時四十分。勉強する時間もなければ、シャワーを浴びる時間すらない。


 階段を駆け下りた私は、リビングのソファに腰かけた母に訴えた。


「どうして起こしてくれなかったの」

「起こさないわよ。朝まで寝てなさいって言ったでしょ」

「試験に遅れちゃう」

「まずは熱を測って」


 母は有無を言わさぬ調子で、私に体温計を差し出した。ひったくるようにそれを受け取り、先端を腋に挟む。そのまま洗面所に移動しようとして、私はふと足を止めた。


 リビングのテレビがついている。


 そこに映っているのはいつもの情報番組ではない。地球の姿が映し出された巨大な液晶パネルがあり、その前の長机に白衣を着た女性が複数並んでいた。胸の部分にはイブ・プロジェクトという英語のロゴが描かれている。  


「あっ、イブ計画の記者会見っ」


 そういえば日本時間の朝八時から発表があるんだった。


 いまだ霞がかったような頭の中が、急速に晴れてくる。


 今、巨大な箱が開いて、人類の未来が確定する――


「残念だったわね」

「え……?」


 母がテレビに目を向けて、ぽつりと言った。


 画面の中では、記者の質問に対し、プロジェクトリーダーと思しき白髪の女性が英語で答えている。何を言っているかはよくわからないが、改めて画面を見ると、右端に「新世代、いまだ誕生ならず」というテロップが大きく提示されていることに気づく。


 プロジェクトリーダーのコメントが、字幕となって表示された。


 イブ計画に重要な進捗があったことは事実であり、受精から胚の発生に至る過程のどの部分をウイルスがどのように阻害しているのか、メカニズムの一部が解明されたという。  


 しかし、検証を進めたところ、阻害要因を回避したとしても、発生の別段階で新たな問題が起こることが判明した。別種の阻害メカニズムがあるのだろうという憶測が語られ、中途半端な状態で関係者から情報がリークされたことへの遺憾の意が表明される。


 白髪のプロジェクトリーダーは、カメラを真っすぐ見つめて毅然と言った。


「ただ、我々はイブ計画が第二段階に移行したと考えている。これは小さな一歩に見えても、人類にとっては大きな一歩だ。私達は決して諦めない。あなた達も希望を捨てないで」


 その宣言がどこか空虚に響き、映像はニュース画面に切り替わった。キャスターは何事もなかったかのように、「次はお天気です」と言った。


 太平洋沖に発生した大型台風が、来週にも関東に接近するらしい。最悪の事態に備えて避難場所の確認、緊急時に備えて水や食料の確保を、という呼びかけを私は茫然と立ちすくんだまま聞いていた。

 腋の下で、体温計がピピッとくぐもった音を立てた。

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