第34話 でっかい借りがあるからさ
私達はしばし無言で海を眺めていた。
動物園に一緒に行った時は、昼食時の沈黙に居心地悪く感じたが、今は不思議とそう思わない。
世界はとても静かで、人口は年々減っていて、でも私達は確かにここにいて、並んで呼吸している。
波が砕ける音だけが、地球の息吹のように繰り返し鼓膜を揺らしていた。
ふと、今なら聞けそうだと思った。
「ねえ、すみれ……学校、やっぱり辞めるの?」
すみれは一瞬私を見た後、大きく伸びをした。
「婆ちゃんのために卒業までは行こうかと迷ってたけど、やっぱ難しいかな。学校行きながらバイトして学費と生活費出すのは無理だし」
「保護者の叔母さんには頼れないの?」
アメリカにいるという叔母が、終業式の日にやってくると聞いている。
しかし、すみれは淡々と首を横に振った。
「叔母さんには、借りを作りたくないしな」
すみれは貸し借りの話をよくする。
「まだ学生なんだから、ちょっとくらい頼ってもいいんじゃない?」
「……」
イブ計画が成功すれば、私達は未来を手に入れられる。そうなれば学校での勉強だって決して無駄にならないと私は思っている。
だが、すみれは何も答えず、砂に手をついてよっこらせと立ち上がった。
「あたしは、でっかい借りがあるからさ」
「借り……?」
「さ、もう一泳ぎしてくるか」
すみれはそのまま海へと戻って行った。
サーフボードに覆いかぶさって沖のほうまで漕ぎ出していく姿を、私はなんとも言えない気持ちで見守る。沖まで行くと海水浴客はほとんどいない。無人の水面を一人進んでいくすみれは、まるで紺碧の海に飲み込まれていくようで、やけに心細く見えた。
ボードに立ったすみれは海面を軽快に滑っていたが、体勢を崩したのか途中大きくよろめいて白波の陰に消えた。後にはひっくり返ったサーフボードだけが浮いている。
「すれみ……?」
私は弾かれたように立ち上がった。
「ねえ……ちょっとっ」
パラソルの陰から慌てて飛び出す。太陽に炙られた砂が足裏を焼くことも気にならない。
駆けて、駆けて、ようやく浅瀬にたどりつき――
「すみ……わぷっ!」
濡れた砂に足を取られ、私は頭から海水にダイブした。
弾みで大きく水を吸い込んでしまい、鼻の奥にきりりとした痛みが走る。
声は声にならず、ごぼごぼという音とともに泡なって消えていく。手足を懸命にばたつかせるが、波に翻弄されて上下左右もわからない。
溺れる。
そう確信した時、腕を何者かに捕まれ、強引に引き上げられた。
私は訳もわからず、その何者かにしがみついた。
「大丈夫か? 何やってんだよ、つぼみ」
「すみ……れ?」
私が密着していたのは、水着姿の同級生だ。
「え? なんで?」
「こっちが聞きたいって。いつの間にか見えなくなってるから、急いで戻ってきたんだよ」
「あの、すみれが波に飲まれて、私……」
それを言うと、すみれは一瞬驚いたような顔をした。
「……服のままで? 沖にいたあたしを助けられると?」
「わ、悪かったわね。反射的に身体が動いたの」
「……」
私をまじまじと見つめた後、すみれは大きく溜め息をついた。
「そんなことよくあるし、紐でボードと身体を結んでるから大丈夫だって。っていうか、ちょっと苦しい」
「あ、ご、ごめん」
私はようやく気づいたように、すみれの肢体から離れた。
まだ心臓がばくばくしている。
しかし、生死の境を彷徨った同級生を、すみれは指をさして笑った。
「ってか、ここで溺れそうになるとか、どんな運動神経なんだよ」
「わ、悪かったですね」
よく見ると、私達が立っている場所はせいぜい膝下までしか水がない。
元のパラソルの場所に戻り、すみれの持っていたバスタオルで髪をふいた。
くしゅん、とくしゃみが出る。
「ほら、水着まだ余ってるから、こっち着ろよ」
「いや、いい……そのうち乾く」
残念ながら、すみれの水着が私に合うとは思えない。身長は同じくらいでも、腰の高さからして違うのだ。
しかし、なんだか少し冷えてきた。さっきまで眩しいほどの青色をしていた空と海が、墨を落としたように暗く淀んだ色合いへと変貌している。
上に目をやると、いつの間にか灰色の雲が、まるで地上に蓋をするかのように隙間なく空を覆っていた。
「……急に崩れてきたな」
首にタオルをかけたすみれがつぶやく。
視界の先、折り重なるように立ち込めた雲の奥で、遠雷がごろごろと音を立てていた。
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