第31話 他に何もないから
結果的に我が家と部屋とあまり変わらない環境になってしまったが、今さらどうしようもないので、私は用意した勉強に取り掛かることにした。
開け放った窓から蝉の声が侵入し、室内で反響する。じりじりとした熱気にあぶられて、汗がぽたりとノートに落ちた。
すみれは居間であぐらを掻いて、私のほうをぼんやり見ていた。
「あ、ごめん。暇だよね?」
「ああ、いや、あたしが誘ったから別にいいんだけど、勉強って楽しい?」
「嫌いじゃないけど、別に楽しい訳じゃないかな」
本音を口にすると、すみれはきょとんとした様子で言った。
「じゃ、なんでそんなに頑張ってんだ?」
「……」
私はノートから目を離した。
――お前は一体何のために勉強しているんだ。
部長の言葉とすみれの疑問が、耳の奥でまわりながら重なり合う。
「……ないから」
「え?」
「私には、他に何もないから」
「……」
ペンを握る指に、少し力が入る。
私は多分、人より勉強している。でも、それは部長のような高尚な思いからではない。
「私、お姉ちゃんがいて。いつもは適当な人なんだけど、やる時はやるみたいな感じで、みんなからも可愛がられて、今の大学だって高校の時の活動が教授の目に留まって推薦で入って。それに比べて、私ってすっごく普通で、面白い訳でもないし、勉強くらい頑張らないと何もないから」
滅びゆく時代に勉強の意味があるのかという疑問を無理やり封じ込めて、私はこれまで机に向かい続けた。報道部に入ったのも、何もない自分にとっての何かを探すためだ。
暗闇の先に何かがあると信じて、私は勉強を沢山して、学級委員長を務めて、由緒ある報道部員に志願した。明後日のイブ計画の記者発表の結果によっては、そんな日々が少し報われるかもしれない。
それでも結局、休日に同級生に遊びに誘われ、相手の家で勉強をしてしまうようなつまらない人間が私なのだ。
騒がしく鼓膜を叩く蝉の合唱。汗ばむほどの熱を帯びた空気。
すみれの何気ない疑問が、まるでスイッチになったかのように、いつもは言葉にしない思いが唇から漏れ出ていく。
「あ……ごめん。変なこと言って」
我に返って口を押さえるが、すみれは表情を変えないまま、居間にごろんと横になった。
「いや、別に……ただ、あたしはつぼみがつまんない奴だとは、全然思わねーけど」
「……あり、がと……」
いつの間にか随分と肩に力が入っている。私は大きく息を吐いてペンを指から離した。
「あの……すみれは?」
「ん?」
「今日遊ぶことに妙にこだわってたみたいだから、何か理由があるのかなって」
退学の件で言いたいことがあるんじゃないかと、私はかすかに身構える。
彼女は少し困った顔をして金髪をぽりぽりと掻いた。
「いや……まあ、暇だったからさ。本当は一日中バイトだったんだけど、採算が合わないとかで急に休みになって。なんか一人でいる気分じゃなかったし」
「え? それだけ? それで試験直前の同級生をわざわざ呼び出した?」
「それはまじで悪かったって。エアコン壊れているとは思わなかったんだって」
少し慌てた様子で起き上がったすみれは、冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎ、私の前に置いた。
「お詫びに勉強終わったら、いいとこ連れてってやるから」
「……動物園?」
「いや、もっといいとこ」
悪戯っ子のような顔を見ていると、体中のこわばりが不思議と解れていく気がする。
私は立ち上がって、目の前のグラスを一気に飲み干した。
「じゃ、もう行こっか」
「いいのかよ?」
「うん、せっかくの休日だし」
予定の半分も終わらなかったが、もはや集中が続く気がしない。
それに不登校で、一人暮らしで、クォーターで、バイクに乗っている、普通じゃない彼女が、面白みのない私のことをつまらなくないと言ってくれたことが、やっぱりなんだか嬉しく思えたのだった。
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