第52話
そして新生活にも慣れてきた初夏の土曜日。涼と会話をしながらまったりと昼下がりの午後を部屋で過ごしていると、珍しく寮母が訪ねて来た。
「崎山さんにお手紙が届いてるよ」
そう言って彼女が渡してくれたのは見覚えのある封筒だった。音羽は寮母が部屋から去ってからもドアの前でそれを見つめて立っていた。
それは去年の秋、音羽の元に送られてきた封筒と同じ。そして、香澄美琴の遺書が入れられていた封筒と同じ。そっと裏を確認する。そこに書かれてあったのは宮守理亜の名前。
音羽は微笑みながら振り向き、涼に視線を向けた。彼女は不思議そうに「手紙? 誰から?」とテーブルに両腕を置いて身を乗り出してきた。
「理亜」
「え、うそ」
「ほんと」
音羽は言いながらクッションの上に座ると封筒を開いた。涼はさらに腰を上げて封筒の中を覗き込んでくる。その中には一枚の写真が入っていた。他には何もない。音羽はそれを取り出すとテーブルの上に置く。
「……なにこれ。手紙とは言えないよね」
写真を見た涼が呆れたように呟きながら腰を下ろす。
「ほんとだね」
音羽も苦笑しながらその写真を見つめた。それは理亜と瑠衣が両手を空に伸ばしてポーズをとった写真だった。
バックに広がっているのは見たこともないほど綺麗な浜と海。二人はお揃いの水着を着ているようだ。海の色はコバルトブルーで沖には島も船も見えない。どこまでも続く綺麗な海は、まるでその先で真っ青な空と溶け合っているようにすら見える。
そんな景色を背景にして満面の笑みを浮かべる二人の上には太いマジックで『元気!』と力強く書かれていた。
「元気なのは見たらわかるでしょ」
写真を見つめ、穏やかに微笑みながら涼が言う。音羽も頷きながら写真の中にいる理亜を見つめた。
水着の胸元にはあのペンダントが太陽の光を反射させている。音羽は自然と自分の胸元に手をやる。彼女がこのペンダントを着けてくれている。それだけで理亜と繋がっているような気がして心が温かくなる。
「……崎山さん?」
不思議そうな涼の声に視線を向けたそのとき、テーブルに置いていた音羽のスマホが鳴り始めた。着信だ。画面を確認した音羽は思わず「え?」と目を丸くした。
「なに、どうしたの?」
涼がさらに不思議そうに首を傾げた。しかし音羽はその声に答えるよりも先に通話をタップしてスマホを耳に当てていた。
「あ、出た。なんだよ、遅いよ。ちゃんとコールは二回で出てくれないと」
「ごめん。びっくりして動けなかった」
音羽が言うと理亜は声を上げて笑った。楽しそうに。
「手紙、届いた?」
「うん。ちょうどさっき届いてね。今見てたところ」
「すごい。タイミングばっちりじゃん!」
「だからびっくりしたんだってば」
「ねえ、誰からなの?」
涼が眉を寄せながら音羽のことを見つめているのでスマホをスピーカーに切り替えてテーブルに置いた。
「ん、音羽?」
テーブルに置いたときに音が響いたのだろう、不思議そうな理亜の声が聞こえた。
「え、この声って宮守さん?」
涼は目を大きく見開いた。その声に理亜が「なんだよ、下村もいるの?」と怪訝そうに言う。
「そこ、音羽の部屋じゃないの?」
「そうよ。部屋替えがあって、春からわたしが崎山さんのルームメイト」
「えー、なんだよそれ」
「そこは俺の場所だったんだぞ?」
ふいに聞こえた不満そうな声は瑠衣のものだった。どうやら向こうもスピーカーにしているようだ。しかし二人の声以外は聞こえない。室内にいるのだろう。
「瑠衣ちゃん、元気?」
「何言ってんだよ、音羽。元気って書いてるだろ、写真に」
少し懐かしい生意気な口調に音羽は思わず笑いながら「たしかに」と答える。
「でも、なんで手紙? スマホが変わってないならメッセージでも――」
「だって残るじゃん」
音羽の言葉を遮って理亜は穏やかな声で言った。
「……残る?」
「うん。手紙だったら残るでしょ?」
「――そっか。そうだね」
音羽は微笑みながら写真を手に取る。そんな音羽を見つめていた涼は「それで?」とため息交じりに言った。
「宮守姉妹は今どこにいるわけ?」
すると理亜と瑠衣が声を揃えて「沖縄」と答えた。
「沖縄? なんで」
「医者がさ、わたしにはのんびりした空気が必要だって言うんだよ。だから宮守の親戚の家に世話になってんの」
「瑠衣ちゃんもそうなの?」
音羽が聞くと「いや、わたしは親命令で家を出された」と笑い混じりの瑠衣の声が答えた。
「親命令?」
「そ。もっと外の人間と触れ合って来いってさ」
「まー、つまり二人まとめて成長してこいってことみたい」
「家出たくらいで成長できるわけ?」
涼の呆れた声に二人の笑い声が響く。音羽も一緒になって笑いながら写真を見つめる。
「ところで下村。おまえ、音羽に何もしてないだろうな?」
写真の理亜は笑顔だ。いつもこの部屋で見ていたのと同じ、ちょっと挑発的で魅力的な笑顔。
「はあ? 何もって何をよ」
「お前が音羽に気があることは分かってる」
「ちょっ! なに言ってんの?」
理亜の体型は音羽が知っているときよりも痩せているように見える。
「ごまかしても無駄。瑠衣からもそう聞いてるんだから」
「あんた、なに余計なことを」
「余計なって言ってる時点で認めてるぞ、お前」
再び二人の笑い声が響いた。隣では涼が顔を真っ赤にして「違うからね? 崎山さん」と慌てたように言う。音羽は苦笑を浮かべた。
「大丈夫だよ。気にしてないから」
「いや、それはそれで……」
「言っとくけど、音羽はわたしのだからね」
「なに言ってんの、理亜」
笑って答えながら音羽は視線を写真に戻す。
「崎山さんにそういう気はないみたいだけど?」
「音羽の気持ち関係なく、音羽はわたしのなの。わたしがそう決めたの」
写真に写る理亜の右腕には傷跡のようなものがあった。白い肌が引き攣ったように見える小さなそれは、もしかするとレンズの汚れかもしれない。あるいは写真そのものが汚れているのか。
考えながら音羽はじっと写真の中に写る彼女の腕を見つめる。
「勝手に決めないで。崎山さんに迷惑でしょ」
どうやらそれは写真の汚れでも、レンズの汚れでもない。間違いなく理亜の腕にある傷跡だ。
一気に血の気が引いていく。
音羽が知る限り、理亜の右腕にそんな傷はなかったのだ。しかし音羽は知っている。事故で右腕に怪我を負った少女のことを。
「迷惑なわけないじゃん。音羽だってわたしのこと好きだし。ね、音羽」
理亜の楽しそうな声が聞こえる。いつもここで彼女が音羽をからかっていたときと同じ、ちょっと勝ち気で意地悪そうな口調。
「――ねえ、理亜」
口を開いた音羽に涼が不思議そうな表情を向けた。
「ん、なに? まさか怒った?」
「そうじゃなくて、腕」
「腕?」
「うん。右腕、怪我したの?」
すると一瞬の間があって「あー」と理亜の困ったような声が聞こえた。
「ちょっとね」
「いつ?」
「いつだったかな。覚えてないけど……。かなり前だよ」
「かなり前……。瑠衣ちゃん、知ってた?」
「いや、知らないけど。でも理亜が覚えてないってことはたいしたことなかったんだろ。理亜、色が白いから傷も残りやすいんじゃない?」
瑠衣の口調からは、まるでそのことを気にした様子も感じられない。それは涼も同じようで彼女はただ怪訝そうな表情で「崎山さん、どうしたの? 何かちょっと顔色悪いけど」と音羽のことを見ている。
「ね、音羽」
少し低めの理亜の声が頭に響く。
「言ってくれたよね。わたしが誰であっても、音羽にとってはわたしが宮守理亜だって」
「――うん」
たしかに言った。だって彼女が理亜だと信じていたから。
「だからわたしは決心できたんだよ。理亜として生きようって」
穏やかな彼女の声に音羽は答えることができなかった。鼓動が激しく脈打っている。写真を見つめながら脳裏に蘇ったのは、あのとき海辺の公園で言った彼女の言葉。
――わたしは殺して、殺されたんだよ。
あのときの彼女は苦しそうに見えた。彼女はあのとき、本当は何か別のことを言おうとしていたのではないだろうか。彼女の言う『わたし』とは誰のことなのだろう。美琴なのか、それとも――。
「崎山さん、大丈夫? なんか本当に顔色悪いけど」
心配そうな涼の声。しかし、音羽は写真から視線を逸らすことができなかった。理亜の右腕に残る傷跡から。
「音羽」
柔らかく、優しい声が音羽の名を呼ぶ。それは音羽が知っている理亜の声。この部屋で、毎日聞いていた彼女の声。
そのはずだ。
「音羽に何かあったら、わたしが助けるからね」
それを聞いたとき、ふいに涼の言葉が蘇った。
――それって幸せな人生?
平凡な家庭で優しい両親と妹に愛されて生きてきた理亜。裕福な家庭で、しかし将来の夢を絶たれて両親から距離を置かれていた美琴。
比べてみたらすぐにわかることだ。美琴が欲していた人生がどちらだったのか。
「絶対に、助けるからね」
「――うん」
音羽には、そう頷くしかなかった。
「音羽だったら俺も助けてやるよ」
「ちょっと、わたしは?」
「えー、お前は自分でなんとかできるだろ」
みんなの笑い声が響く。
この違和感に気づいているのは音羽だけ。そしてその違和感の正体を知っているのは彼女だけだ。
「じゃ、また連絡するから」
彼女の明るい声を残して、通話はあっけなく切れてしまった。暗くなったスマホの画面を音羽はぼんやりと見つめる。
「……ねえ、大丈夫? ほんどにどうしたの、崎山さん」
涼の声に音羽は顔を上げて微笑んだ。
「なんでもないよ」
そのとき、膝に置いていた手に冷たい雫が落ちてきた。それは知らないうちにこぼれ落ちた音羽の涙。
「え、ちょ、崎山さん?」
涼は動揺した様子で目を丸くしながら音羽に両手を伸ばす。
「なんで泣いてるの?」
「……さあ。なんでだろ」
しかし、涙は止まらない。
「えっと、こういうときはどうしたら――」
呟きながら涼が遠慮がちに音羽の背中に腕を回し、そっと抱きしめてくる。
「落ち着いて。大丈夫だよ」
きっと涼には訳が分からないだろう。それでも懸命に音羽を落ち着かせようと背中をポンポンと叩いてくれる。
死んだはずの理亜とまた会うことができた。そう思って泣いてしまったあのとき、理亜と信じた彼女がそうしてくれたように。
「……ごめんね。ごめん」
声にもならない声でそう言うと音羽は涼にしがみつくようにして泣いた。
綺麗な桐の棺の中で眠っていた愛しい少女の最期の姿を思い出しながら、ただ泣き続けることしかできなかった。
Who Killed Who Re. 城門有美 @kido_arimi
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