第50話
階段を上がった先は狭い廊下が続いていた。その左右にはいくつかドアが並んでいる。坂口はそのうちの一つを開けて中に入ると「ちょっと座って待っててくれる?」と、足早に部屋を出て行った。
音羽は入り口に立ったまま部屋を見回す。そこは音羽が暮らす寮の部屋と同じくらいの広さだった。会議室なのだろう。長テーブルが組み合わせられて四角形を作っている。
「座ろっか」
音羽は理亜の手を引いて近くのパイプ椅子に腰を下ろした。その隣に無言のまま理亜も座る。彼女の表情はどこか虚ろだった。音羽は理亜を見つめる。顔色が悪い。緊張しているのか、それとも恐怖か。
「大丈夫だよ、理亜」
握ったままの手をギュッと握る。彼女はゆっくり音羽に視線を向けると「そうだね……」と微笑んだ。
それから少しして、坂口は二人の男と共に戻って来た。一人は瑠衣と一緒に宮守家へ行った帰りに見かけた、坂口と一緒にいた若い男。そしてもう一人は体格の良い初老の男だった。おそらくは坂口の上司なのだろう。
三人は坂口を中央にして音羽たちの向かい側に並んで座る。
「すみません、お待たせして」
少し緊張した面持ちで口を開いた坂口の隣で若い男がノートパソコンを開く。何をするのだろうと見ていると「それで」と坂口が続けた。
「もう一度確認させてください」
視線を坂口に向けると、彼女は真剣な眼差しを理亜に向けていた。
「あなたは宮守理亜さん、ですか?」
理亜は微かに頷く。握った手に力が込められた。坂口は「そうですか……」と理亜を見つめたまま言葉を続ける。
「しかし、宮守理亜さんは亡くなったはずです。我々の検死結果、そしてご家族の確認もあり、それは間違いようのない事実。それなのにあなたはここにいる。これはどういうことでしょう?」
坂口の言葉はゆっくりで柔らかい。しかし、その視線は鋭く理亜を捉えていた。彼女の両隣に座った二人は何も言わず、ただじっと理亜のことを見つめている。
「――あれは、わたしじゃない」
掠れた声で理亜は言った。静かな部屋にカタカタとパソコンのキーを叩く音が響き渡る。
「じゃあ、あれは誰?」
「あれは香澄美琴」
「香澄、美琴……?」
坂口が眉を寄せながら問い返す。理亜は頷いた。そして消え入りそうな声で話し始める。自身が生まれてからのことを。そして、自分が何をしたのかということを。
すべてを話し終わったとき、理亜は繋いでいた手を放して鞄から美琴の遺書を取り出した。それを坂口に手渡した彼女の手は、そのまま自分の膝の上に置かれて拳を握る。
坂口たちは理亜の話を聞き終わると顔を見合わせ、小さく頷き合った。言葉はない。まるで視線で会話をしているようだ。
しかし理亜の話を聞いている間も今も、彼女たちの表情は一切変わらない。警察官だから訓練でもされているのだろうか。それとも、こういう仕事をしていると自然とそうなるものなのか。彼女たちの表情を見ていても、理亜に対してどのような感情を持っているのかわからない。
そのとき、ふいに初老の男が無言で立ち上がり、部屋を出て行った。坂口はドアが閉まるのを待ってから「宮守さん」とテーブルの上で手を組む。
「今から宮守家と香澄家、双方のご両親に来てもらおうと思います。そこで今のお話をもう一度していただけますか?」
坂口の視線は理亜に向いている。隣を見ると、理亜は青白い顔で小さく頷いた。そのとき「坂口、ちょっといいか」とノックもせずに先ほど出て行った男が顔を覗かせた。坂口は返事をして廊下に出て行く。残された若い男は、ひたすら無言でノートパソコンに何かを打ち込んでいる。キーの音がカタカタと軽快に響いていた。
「理亜」
音羽の声に理亜はピクリと肩を震わせた。そしてその不安そうな瞳を音羽へと向ける。
「大丈夫だよ」
音羽は彼女の膝の上で握られたままの拳に手を重ねた。彼女は苦しそうに眉を寄せて、ただ小さく頷いた。
「こちらへ」
ドアが開くと共に坂口の声がして音羽はそちらへ視線を向ける。すると彼女の後ろには見覚えのある少女が立っていた。
「瑠衣……?」
理亜が呟く。彼女は音羽と理亜を見ると「よう」と力なく微笑んだ。
「瑠衣、なんでここに」
しかし彼女は答えずに少しだけ口を尖らせる。代わりに答えたのは坂口だった。
「彼女が宮守家のご両親を連れて来てくださいました」
理亜が問うように瑠衣を見つめる。彼女は少し決まり悪そうな表情で「どうせ呼ばれるだろうと思ったから」と小さな声で答えた。
「そっか……」
理亜は微笑む。そして瑠衣の後ろに視線を向けた。
「二人は廊下に?」
「いえ、今は別室に」
坂口の答えに理亜は首を傾げる。
「なんで?」
「ご両親からも事情をお聞きしてからと思いまして。香澄家のご両親とも連絡はつきましたので、間もなく来られるはずです」
「そう」
理亜は静かに頷く。坂口は無表情に彼女を見つめていたが、その視線をスッと音羽に向けた。
「崎山さん」
「はい……」
「大変申し訳ないのですが、本日のところはお引き取りいただけませんか?」
「え、でも」
音羽は戸惑いながら理亜を見る。彼女がギュッと音羽の手を握ってくる。その柔らかな手は冷たく、震えていた。
坂口もその様子に気づいたのだろう。申し訳なさそうな表情を浮かべながら「あなたが理亜さんから信頼されていることは重々承知しています」と続けた。
「ですが、ここから先はデリケートな話にもなりますし」
「デリケート……?」
「ええ。つまり、その、家族間のと言いますか」
言いにくそうに坂口は言葉を濁す。音羽は「ああ……」と呟いて瑠衣に視線を向けた。彼女は困惑したような表情で音羽のことを見ている。
「わたしは部外者ですもんね」
苦笑して音羽は頷く。
「そんなことないだろ。音羽は――」
「いいよ、瑠衣ちゃん」
誰がどう見ても、自分は部外者だ。
どんなに理亜のことを想っていても、他人であることに変わりはない。
どんなに理亜のことを助けたいと願っても家族にはなれない。
この場で自分にできることは何もない。
「あの、ここからはお話も長くなると思いますので」
音羽は頷き、手を握り続けている理亜に視線を向ける。彼女は泣き出しそうな表情で音羽のことを見ていた。
「理亜」
瑠衣が近づき、理亜の肩に手を置く。すると彼女は顔を俯かせ、何かを呑み込むように頷いて握っていた手を離した。
「音羽」
理亜は顔を上げると静かに音羽の名を呼ぶ。
「うん。なに?」
「ありがとね」
ニッと彼女は笑った。いつものように。
こんなこと、なんでもないとでも言うように。
自分はもう大丈夫だ。そう言っているような笑顔に音羽は笑みを返す。
「どういたしまして」
そして坂口に促されるまま部屋を出る。ドアが閉められる瞬間に振り向くと、理亜は笑顔のまま音羽を見ていた。まるで音羽を安心させるかのように。
「これじゃ逆でしょ……」
閉められたドアに向かって呟く。本当は、音羽が理亜のことを安心させてあげなくてはいけなかったのに。
――助けられたかな。少しでも。
階段を降りながら思う。軽くなった右手には、理亜の柔らかくも冷たい手の感触が残っていた。
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