第37話
音羽は目を丸くして彼女を見つめる。
「――なんでここに? まだ授業中だよね?」
そう言った音羽の言葉に涼は「早退したから」と短く答えた。音羽は眉を寄せる。
「早退って、なんで」
「決まってるでしょ。崎山さんのこと探そうと思って」
「え……」
「ファミレスを手当たり次第に探そうと思ってたんだけど、近くにいて良かった」
そう言った彼女の声は固く、表情は怒ったままだ。音羽は彼女から視線を逸らして腕を引く。
「腕、放してよ。痛い」
「嫌」
「行くところがあるから」
「ダメ。一緒に帰るの」
低くそう言った彼女は問答無用で音羽を引っ張って歩き出した。
「ちょっと下村さん! 痛いってば!」
しかし、いくら音羽が声をあげても涼の手の力が緩むことはなかった。
引っ張られるままに寮へと戻った音羽は自室でテーブルを挟んで涼と向かい合うようにして座っていた。腕をさする音羽を涼は申し訳なさそうに見つめる。
「……ごめんなさい。ちょっと、力が入り過ぎちゃって」
「痛かった」
「だからごめんって……。でも、あれくらい掴んでおかないと崎山さん、逃げると思ったから」
「そうかもね」
音羽は頷くと「怒ってるの?」と涼を見つめた。
「え?」
「わたしが電話で言ったこと」
すると彼女は「別に、そういうわけじゃないけど」と小さな声で言う。
「けど?」
しかしそれ以上、彼女は何も言わなかった。音羽は小さく息を吐いてから「ごめんね」と謝る。
「ひどいこと言ったなって、電話を切ってから思った」
「……でも、本当のことだから。わたしはあなたのことをまだよく知らない」
涼は顎を引き、何かを確かめるように音羽を見つめながら「だから」と続ける。
「もっとよく知りたいと思ってる」
「……なにを?」
「崎山さんのこと」
彼女はそう言うと少しだけ心配そうに眉を寄せた。
「さっき、誰と電話してたの?」
音羽は軽く笑う。
「なんで? 別に誰でもいいじゃん」
「そうだね。相手は別に誰でもいい。でも電話してるときの崎山さん、泣きそうな顔をしてたから」
答えない音羽に涼は腰を浮かして手を伸ばした。そして音羽の頬に触れる。
「今だって、こんな顔してる」
音羽は顎を引き、顔を背けながら「いつもこんな顔だけど?」と答える。涼は手を下ろすと優しく微笑んだ。
「もし、何か困ってるなら力になるから」
真っ直ぐな言葉。きっとその言葉に偽りはないのだろう。だが、音羽は答えない。困っていることがあるわけではない。ただ知りたいだけだ。理亜の言葉の真意を。耳の奥には、まだ彼女の声が響いている。
――もう、いいんだよ。
何がもういいのだろう。全然、よくないのに。
視線を俯かせて考えていると、涼が静かな声で「香澄美琴」と言った。音羽はハッと彼女に視線を向ける。涼はポケットからスマホを取り出すとテーブルに置いた。そこには理亜の画像が表示されている。
そう思った。
しかし、すぐに違うとわかる。淡い水色のドレスを身に纏って微笑む彼女は理亜ではない。理亜はこんな顔で笑ったりしない。こんな、作ったような笑みを浮かべたりはしない。
そこに写っているのは香澄美琴に違いなかった。
一瞬にして口の中が乾く。音羽はスッと短く息を吸い込むと「どうして……」と掠れた声を絞り出す。
「調べたんだ」
涼は静かな口調のまま言った。そしてスマホの画像をスライドさせる。次から次へと表示される画像。それはどれもピアノのコンクールで撮影されたもののようだ。どの画像にも控えめに微笑む、理亜によく似た少女が写っている。しかし、そのどれもが理亜ではない。
「調べたって、なんで――」
「あなたが気にしてたから。あれから、香奈と一緒に調べてた」
音羽は郵便局の前で見た二人の姿を思い出す。
「へえ……」
答えながらも音羽の視線はスマホの画像から動かすことができない。涼は続ける。
「香澄美琴。小学五年生の頃にフランスへ留学。ピアノの勉強をしてたけど中学二年のときに事故に遭い、右手が使えなくなって帰国。それからはコンクールに出ることもなくなった。この写真は事故に遭う少し前のコンクールで撮られたもの」
彼女はそこで言葉を切ると、スマホの画像を指差した。そこには大人のような表情で微笑む美琴の姿。
「似てるよね? 宮守さんに」
音羽はゆっくりと視線を涼に向ける。彼女は真剣な表情で音羽を見ていた。そして「ううん、似てるどころじゃない」と続けた。
「こんなの、まるで本人みたい」
そう言って彼女はじっと音羽を見つめる。反応を確かめるように。それでも音羽が無言を貫いていると、彼女はやがて諦めたようにため息を吐いた。
「やっぱり知ってたんだ?」
そう言って彼女は僅かに首を傾げた。
「この子、宮守さんとどういう関係なの?」
音羽は涼を見つめた。彼女もまた音羽を見つめている。ただじっと、待っている。音羽の答えを。音羽の言葉を待っている。これ以上黙っていてもきっと彼女は自分ですべて調べてしまう。そんな気がする。ウソをついても彼女にはわかってしまう気がする。それほど、まっすぐで綺麗な瞳だった。
もう、本当のことを言ってしまおうか。
そんな考えが頭をよぎる。そうしたら理亜はなんと思うだろう。怒るだろうか。また音羽の前から姿を消してしまうだろうか。やっと会えたのに、また会えなくなってしまうかもしれない。
――それは嫌だな。
そのときガラッと窓が開く音が響いた。
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