第36話

「嫌いな奴だったの?」


 いつの間にか運ばれてきていたサラダを小皿に取りながら瑠衣が言った。音羽はスマホをテーブルに置いて「ううん」と小さく息を吐く。


「良い人だよ。わたしのことすごく心配してくれてる……」

「ああ、前に言ってた奴?」

「そう」

「へえ……」


 瑠衣はレタスをパリッと噛むと「それにしてはけっこうキツイ言い方だったな」と言った。音羽はため息を吐く。


「だね。なんか、つい」

「ま、良い奴は良い奴だけにやっかいだからなぁ」


 瑠衣は以前にも聞いたようなことを言うと「ほら」と小皿に取り分けたサラダを音羽の前に置いた。


「サラダくらいは食べろよ」

「ありがとう」

「いいよ。音羽のおごりだし」


 音羽は苦笑しながら箸を手に取る。


「それで、これからどうしようか」


 モシャモシャとサラダを食べながら音羽は聞いた。瑠衣は「どうしようもないだろ」と肩をすくめる。


「とりあえず、母さんが警察にどう答えたのか聞かないことには何もしようがない。ま、それはあとで聞いとくからさ。それからどうするか決めるってことで」

「うん、そうだね……」


 音羽は頷き、そして箸を止める。


「もしさ」

「ん?」

「もし、おばさんが警察に上手く言ってくれて捜査が終わったとしたら、その後はどうなると思う?」

「どうって……」

「それで、理亜を助けたっていうことになる?」


 音羽はまっすぐに瑠衣を見つめた。彼女はわずかに眉を寄せて「それは」と顔を俯かせる。

 人を殺めてしまった理亜。そんな彼女の心を助けたことになるのだろうか。

 きっと同じことを瑠衣も思っていたのだろう。彼女は「考えるしかないだろ」と低い声で言った。そしてスマホを取り出して画面を見る。


「俺、学校行く」

「今から?」

「うん」


 彼女は残っていたサラダを一気に頬張りながら頷いた。


「母さんに言ったからな。学校には行ってるって。言った当日にサボってたらなんかアレじゃん? だから、とりあえず行ったっていう証拠を残してくる」


 音羽は思わず苦笑する。


「それ、意味ある?」

「行かないよりはいいだろ」

「まあ、たしかに」


 微笑みながら答えると、瑠衣は嫌そうに顔をしかめた。


「なんだよ?」

「別に」

「なんか、お前そういうとこがアレだぞ」

「アレって?」

「……もういい。じゃ、行くから」


 音羽は笑いながら「行ってらっしゃい」と、立ち上がった瑠衣に手を振る。彼女は背を向けたが、すぐに何かを思い出したように振り返った。


「今日はそっちに帰るからな」

「寮に?」

「そう」

「うん、わかった。窓開けておくね」

「ん、頼んだ」


 彼女は頷くと今度こそ店を出て行った。

 その後、しばらくドリンクバーで粘って時間を潰していた音羽だったが、さすがに長時間居座ることに居心地の悪さを感じてきたので大人しく寮へ帰ることにした。

 地元駅に戻り、寮への道を歩きながらスマホで時間を確認する。この時間、学校では六限の授業中のはずだ。今ならば寮に帰っても誰かと会うことはないだろう。


 ――帰る前にコンビニで夕飯でも買おうかな。


 なんとなく、食堂で涼と顔を合わせるのが気まずい。食堂で会うことを回避したからといって同じ場所で暮らし、同じ学校へ通っているのだ。どうせすぐに顔を合わせることになるのだろう。それでも今日は顔を合わせたくない。

 自然と音羽がため息を吐いたとき、手に持っていたスマホが鳴り始めた。着信だ。足を止めて画面を確認する。そこに表示されている名前を見て音羽は微笑んだ。


「理亜だ……」


 嬉しさに呟きながら通話をタップしてスマホを耳に当てる。その瞬間、音羽が声を出すよりも早く「音羽?」と理亜の声が聞こえた。音羽はつい声を出して笑ってしまう。


「え、なに。なんで笑ってんの?」

「だって理亜、勢いありすぎじゃない? ビックリした」

「ふうん? なんでビックリして笑うの?」

「いや、なんか面白くて」


 音羽は少し息を吐いて落ち着くと「それで、なんで電話?」と聞いた。


「メッセージとかの方がいいんじゃない? 誰かにわたしたちの会話聞かれたらまずくない?」

「まあ、そうなんだけど。でもメッセージだと痕跡が残っちゃうじゃん。だから電話のがいいかなって」

「痕跡……」

「そう。あ、なんかさ、かっこいいよね。痕跡って言葉」

「なにそれ。よくわかんないけど」


 たまに理亜はこういうわけのわからないことを言うときがあった。そういうときの彼女は子供のようなキラキラした笑顔を浮かべていたことを思い出す。きっと、今もそんな笑顔で言っているのだろう。


「でさ、音羽。これどうしたの? さっき届いたんだけど。ペンダント」

「あー、それ。届いたんだ?」


 背後から自転車が走ってきたことに気づき、音羽は歩道の端に寄った。自転車はのんびりと通り過ぎて行く。


「それね、こないだ駅ビルで見つけたんだ。理亜と会ったときに渡そうと思ったんだけど、渡しそびれちゃったから」

「へえ。それでわざわざ郵送?」

「うん、まあ。あの、気に入らなかったら――」

「ありがとう、音羽」


 瞬間、音羽は言いかけた言葉を呑み込んだ。電話の向こうから理亜の息遣いが聞こえる。


「大事にするから」


 静かに澄んだ理亜の声が言う。


「――うん」


 音羽は俯きながら頷いた。込み上げてくる嬉しさから他に言葉が出てこない。音羽は一度深く呼吸をしてから「えっと……」と言葉を探した。


「その、ペンダントのことで電話してくれたの?」

「あー、いや。そうだけど、そうじゃなくて」

「違うんだ?」

「いや、えっと、あのさ……」


 迷うような理亜の声に音羽は「うん。なに?」と首を傾げる。しかし彼女は「えーっとね」と言ったきり、黙り込んでしまった。


「理亜?」


 音羽が聞くと「――から」と理亜の小さな声が聞こえた。


「え、ごめん。よく聞こえなかったんだけど」


 すると今度は、はっきりとした口調で彼女は言った。


「もう何もしなくていいから。わたしのこと、放っておいても大丈夫だからさ。ごめんね」


 まるで遊ぶ約束をキャンセルするような、そんな軽い調子だった。音羽は何を言われたのか理解できずに立ち尽くす。答えない音羽を心配したように、理亜は「音羽? 聞いてる?」と言った。


「……聞いてる、けど。え、でも、今なんて?」

「うん。だからさ、もう、何もしなくていいんだよ。わたしのこと助けようとか、そういうことしなくていいから」

「なんで?」


 音羽の問いに彼女は「んー」と苦笑したように息を漏らした。


「よく考えたら、このままでも大丈夫かなぁって思ったんだよね。警察が動いてるっていっても未だに何も手がかりすら見つけてないわけでしょ? わたし、ノリで助けろとか言っちゃったけどさ。別に必要なかったかもって」

「でも、理亜――」

「だからもういいよ。助けろっていうのも忘れて。瑠衣にもそう伝えてほしい」


 理亜は早口でそう言った。音羽は呆然とその言葉を聞いていたが、やがて一つ深呼吸をしてから「だったら」と声を振り絞る。


「だったら、なんで会いに来たの?」


 一気に溢れ出してきそうな感情を殺し、精一杯冷静を保って言葉を吐き出す。気を緩めると涙が出てきそうだ。

 音羽はグッと身体に力を入れながら「なんで、タブレットなんて残したの?」と続けた。しかし理亜は答えない。音羽はもう一度、深く呼吸をしてから「よくなかったからでしょ?」と言った。声が震えてしまう。視界が滲んでくる。それでも言葉は止まらない。


「全然よくないから、苦しいから、だから助けてほしいって、そう思ったんじゃないの?」

「――もう、いいんだよ」


 掠れた理亜の声はそう言って途切れた。ツーッと耳障りな電子音が鼓膜を刺激する。音羽はスマホを持ったまま、溢れてきた涙を手の甲でゴシゴシと拭った。


「……理亜のバカ」


 涙を拭いながら呟く。そして顔を上げると来た道を戻り始めた。

 理亜のところへ行こう。もしかすると何かあったのかもしれない。何もなかったのだとしても直接会って話がしたい。いや、話をしなくてはならない。いまさら彼女を放っておくなんてできるわけがないのだから。

 音羽は駅に向かって駆け出そうとした。しかしそのとき、何者かに右腕を掴まれた。


「痛っ!」


 引っ張られた拍子に体勢を崩したが、なんとか踏みとどまる。強く握られた右腕に痛みが走った。音羽は顔をしかめながら腕を掴む人物へ視線を向けた。


「……下村さん?」


 そこには怒ったような表情で音羽の腕を掴む涼の姿があった。

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