第六章 不安

第35話

「坂口さんたち、本当に家に行ったのかな」


 ファミレスでポテトを食べながら音羽はぼんやりと呟いた。向かいに座った瑠衣はジュースのストローをくわえたまま「さあな」と頬杖をついている。比較的空いている店内に音羽たちと同じ年頃の者はいない。平日昼のファミレスは一人客が多いようだ。


「お待たせしました」


 そう言って店員が運んできたのは瑠衣が頼んだ唐揚げ定食だった。彼女は少し嬉しそうな表情で箸を手にすると大口を開けて唐揚げを頬張る。


「熱くないの? それ、揚げたてでしょ」


 思わず笑いながら訊ねると彼女はモゴモゴと返事をした。が、何を言ったのかよくわからない。


「まあ、いいけど。火傷しないでよ?」


 瑠衣は喋ることを諦めたのか、モグモグと口を動かしながら頷いた。そして唐揚げを呑み込むと「音羽は食べないの?」と首を傾げる。


「うん。あんまりお腹減ってないから。ポテトとドリンクバーで充分」

「なんだよ。人にはちゃんと食えって言っておきながら」

「まあ、そうなんだけど」


 音羽は笑う。


「でもわたしはいつも食堂でちゃんと食べてるからね。瑠衣ちゃんほど食生活乱れてるわけじゃないから」

「ふうん?」

「瑠衣ちゃんは成長期なんだからもっとちゃんと食べないと。あ、サラダ頼む?」

「いや、やめろよ。お前は俺の保護者か」


 嫌そうに顔をしかめる瑠衣に音羽は声を上げて笑った。そして食事を続ける瑠衣を眺めながら「ちゃんと言ってくれたかな。おばさん」と言った。


「警察に?」

「うん」

「どうだろな」


 瑠衣は箸を止めてじっと皿を見つめる。


「たぶん、何も言えなかったんじゃないかな」

「そうだよね……」

「ああ。母さん、たぶんかなりショック受けてたし」


 瑠衣は言いながらため息を吐いた。やはり彼女も母親にウソを吐いたことを悔やんでいるのだろうか。そう思っていると、彼女は「俺さ」とため息を吐いた。


「思ったんだ。俺も母さんと同じだなって」

「同じ?」

「うん。俺も何も気づけてなかった。理亜のこと」


 彼女は言いながら箸を置く。


「俺は理亜がいて幸せだったけど理亜はそうじゃなかったんだなって。幸せじゃなかったから美琴になろうとしたんだろ? それが、ちょっと悲しいなって」

「瑠衣ちゃん……」


 瑠衣は寂しそうに微笑むと「俺はさ、理亜を守りたくてこんな感じになったけど」と続ける。


「理亜はこんな俺をそのまま受け入れてくれたんだ。瑠衣がそのままの自分でいたいのなら、そのままでいいじゃんって。母さんとか父さんは俺に女らしい服を着せたり習い事とかもさせようとしたけど、理亜だけはこのままの俺を受け入れてくれた。だから俺は理亜のこと大好きだったんだ。いつだって理亜と一緒にいたかった。理亜と一緒なら何をしてても楽しかった。俺は理亜がいれば幸せだったんだ。でも、理亜は違ったのかな」


 瑠衣は言いながら目を伏せる。


「俺のこと、好きじゃなかったのかな」

「――そんなことないよ」


 音羽は瑠衣に微笑む。

 そんなことはない。だって、理亜が瑠衣を見る目はとても優しくて、瑠衣にかける声はとても柔らかいのだ。そのときの彼女の雰囲気はとても温かくて、音羽に向けられたことのない特別な何かが込められているはず。

 そう伝えると、瑠衣は驚いたように目を見開いた。そしてすぐに恥ずかしそうに笑う。


「……助けたいな、理亜のこと」


 音羽は頷き、そしてフフッと笑う。


「な、なんだよ」


 瑠衣が決まり悪そうに眉を寄せる。音羽は首を横に振って「やっぱりサラダ頼もう」とメニューを開いた。


「いいけど、それも音羽の奢りだからな?」

「わかってるって」


 答えながらサラダを選んでいると、テーブルに置いていた音羽のスマホが鳴り始めた。着信だ。画面に表示されているのは下村涼の名前。音羽は画面をじっと見つめてから視線をメニューに戻す。


「……出ないの?」


 瑠衣が不思議そうに首を傾げた。


「うん。出ない」


 用件はなんとなくわかっている。学校を休んだ音羽を心配してかけてきたのだろう。彼女は音羽のことを純粋に心配してくれている。そんな彼女に嘘を言わなければならないことが心苦しかった。

 しかし着信はなかなか鳴り止まない。


「出なよ、電話。その間にサラダは俺が頼んどくし」


 言って彼女は音羽の手からメニューを取り上げる。音羽は仕方なくスマホを手にすると小さく息を吐いてから通話をタップした。


「……もしもし」

「あ、よかった。出てくれた」


 ホッとしたような涼の声は少し聞き取りづらかった。音量が小さいのかと思ったが、おそらく学校からこっそりかけているせいだろう。校内でのスマホの使用は原則禁止。堂々と電話はできないはずだ。


「崎山さん、今日はどうしたの? 朝はちゃんと食堂に来てたのに」


 ピンポーンとベルが鳴り響く。見ると、瑠衣がメニューを手に店員を呼んでいた。


「崎山さん?」

「あ、うん。ちょっと体調が悪くて」

「――どうしてウソつくの?」


 音羽は一瞬言葉に詰まり、そして「ウソじゃないよ」と答える。しかし涼は低く「ウソだよ」と続けた。


「だってそこ、どこかのお店でしょ? ファミレスとか? なんか、呼び出しベルみたいな音が聞こえた」

「ああ、聞こえちゃったか」


 音羽はため息を吐いて呟くとソファの背にもたれた。瑠衣が食事を再開しながら不思議そうに音羽を見ている。


「学校、サボったの?」

「うん」

「どうして?」


 涼の問いに音羽は少し考える。どんな言い訳をしても彼女はきっと音羽を心配するだろう。


「まあ、用事があって」


 他に思いつかず、そんな当たり障りのない返事をする。


「用事……。誰かと一緒なの?」

「なんでそんなこと聞くの」

「だって、崎山さんが学校をサボるなんて初めてでしょ。今まで何があっても学校には来てたのに」

「何があっても、か」


 音羽は口の中で言葉を繰り返す。


「崎山さん?」


 悪気のなさそうな涼の声が音羽の名を呼ぶ。音羽は「何があってもって、それは」と言葉を続ける。


「――理亜が死んでも、周りから冷たい目で見られても、クラスで完全に浮いてても平然と学校に来てたのにってこと?」


 スマホの向こうで涼が息を呑んだのがわかった。音羽はフッと自嘲する。


「別に行きたくて行ってたわけじゃないよ。わたしはそんなに真面目な人間でもない。あの頃はただ、どうでもよかっただけ」

「どうでも……?」

「きっと下村さんはわたしのこと可哀想だと思って話しかけてくれたんだよね。それもわかってる。でも、わたしは下村さんが思ってるような人間じゃないから」

「そんなことない。わたしは友達として――」

「友達?」


 涼の言葉を遮って音羽は言った。


「いつから?」

「え……?」

「わたしたち、いつから友達だったの?」


 それは純粋な疑問だった。涼とは今までほとんど接点はなかった。ただのクラスメイト。それだけだ。話すようになったのは、つい最近のこと。それも彼女が音羽のことを心配して話しかけてくれただけだったはずだ。

 とても良い人だと思う。だけど、彼女と友人なのかと言われるとそこまで親しい仲になったとは思えない。


「違う、の?」


 微かに聞こえた涼の声は震えているようだった。音羽は「だって」と眉を寄せた。


「下村さんと話すようになったの、ほんとについ最近のことだし」

「それはそうだけど、でもわたしは――」

「わたし、下村さんのことよく知らないし。下村さんだってわたしのことよく知らないでしょ? わたしがどういう人間かなんて知ってるわけがない。知ってたらわたしがあの頃、平然と学校に行ってたなんて思うわけがない」

「……ごめん」


 消え入りそうな声で涼は言った。音羽は「別にいいけど」と手元に視線を向ける。こんなことを言うつもりではなかったのに。そんなことを考えながら、空いている方の手を握ったり開いたりする。


「ごめんね。わたし、たしかにあなたのことをまだよく知らない」


 涼は掠れたような声でそう言った。そして小さく息を吐いて続ける。


「だから、もっと知りたいって……。そう、思って……」


 それきり涼の声は聞こえなくなってしまった。音羽は首を傾げる。


「下村さん?」


 心配になって声をかける。しかし微かに聞こえてくるのは遠くで楽しそうにお喋りをしている誰かの声。そしてのんびりと鳴り響く聞き慣れたチャイムの音。


「……休憩終わりみたいだから、もう切るね」


 それでも涼は何も言わない。ただ深いため息のような音が聞こえただけだ。音羽はほんの少し胸に痛みを感じながら、そっと通話を切った。

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