第10話

 寮に戻った音羽は部屋でタブレットを眺めていた。


「……香澄美琴」


 記事に写る幼い少女の写真を見つめながら呟く。理亜によく似た少女。理亜の口ぶりからして棺に眠っていたのはきっと彼女なのだろう。

 では、彼女は何者なのだ。

 音羽はタブレットの向こうで微笑む少女の顔を指でそっと撫でながら考える。

 この画像が保存されたのは四年前。少なくとも理亜はその頃から彼女の存在を知っていたことになる。きっと理亜も思ったのだろう。自分にそっくりだ、と。そして調べたのだ。戸籍謄本まで取って。しかし戸籍には理亜が双子であることを匂わす記述はどこにもなかった。

 音羽はため息を吐いてタブレットをテーブルに置くと、スマホのブラウザを開いた。そして検索バーに『香澄美琴』と打ち込む。検索結果には予想通りピアノコンクールの記事が並んでいた。だが、どれも小学生の部だ。中学生以降の記録は何も出てこない。中学に入ってからはコンクールには出ていないのだろうか。

 考えながら適当な記事をクリックすると、そこには香澄美琴の簡単な紹介文が載っていた。

 それによると彼女の父親は医者。母親は音大出身の元ピアニストらしい。幼い頃からピアノを習い始めてすぐに頭角を現し、数々のコンクールで優秀な成績を収めている。記事にはそう書かれてあった。そして仲睦まじい家族写真が一枚だけ掲載されていた。

 優しそうな笑みを浮かべる両親に挟まれた少女は、およそ少女らしからぬ上品な笑みを浮かべている。それはいかにも上流階級といった雰囲気に包まれた家族だった。


 ――理亜ならこんな笑い方はしないだろうな。


 ぼんやり思っていると部屋のドアをノックする音が響いた。


「……あの、崎山さん。いる?」


 聞こえたのは涼の声だ。音羽は自然と時計に目を向ける。ちょうど夕食の時間帯。なんとなく彼女の用件が予想できる。食事をする気分ではないのだが、それだときっとまた彼女を心配させてしまうのだろう。

 音羽は立ち上がると静かにドアを開ける。するとドアの向こうにはどこか遠慮がちな表情をした涼が立っていた。


「ごめん。食事の時間だったんだよね。忘れてた」


 音羽が言うと、彼女は「あ、そうなんだ」と少し安堵したように微笑んだ。


「よかった。また具合が悪いのかと……」


 言って彼女は音羽の顔を見つめて少しだけ眉を寄せる。


「大丈夫?」

「何が?」

「だって、目が……」

「ああ」


 音羽は片手で目を擦る。さっき泣いてしまったから目が腫れているのかもしれない。


「別に、なんでもないよ。ただ浮腫んでるだけっていうか」


 笑って誤魔化そうとしたが彼女は眉を寄せたままだった。そして「行こう? ご飯」と音羽の腕をそっと掴んで控えめに引っ張った。


「え、でも下村さんはもう食べてきたんじゃ?」


 てっきり食堂に音羽が来ないから呼びに来てくれたのだと思ったのだが。音羽が首を傾げると、彼女は頷いた。


「でも、別に部屋に戻ってもやることないから」

「そうなんだ……」

「あ、でも崎山さんが嫌だったら大人しく部屋に戻るけど。一人で食べたい気分だったら、あの……」


 俯きながら言う彼女は、それでも音羽の腕から手を離さない。音羽は少し考えてから、ふとあることを思い出した。彼女はたしか理亜と同じ中学の出身だったはずだ。だったら昔の理亜のことを知っているはず。


「いいよ」


 自然と、音羽はそう答えていた。涼が驚いたように顔を上げる。


「え?」

「一緒に行こうよ」

「いいの?」


 目を見開きながら言う涼に音羽は頷いた。


「下村さんに聞きたいこともあるから」

「わたしに?」

「うん。だから、行こう」


 音羽は彼女の手を握って廊下を歩き出す。繋いだ涼の手はとても温かかった。体温が高いのだろうか。理亜よりも温かな手を引っ張って歩きながら、急に何も喋らなくなってしまった涼を不思議に思って振り返る。


「下村さん?」


 引っ張られるがままに歩く彼女を見て、音羽は思わず足を止めた。同じく足を止めた彼女は顔を俯かせたまま音羽を見ようとはしない。強引に引っ張りすぎただろうか。そう思い、音羽は「あの……」と涼の顔を覗き込む。


「ごめんね?」


 その瞬間、涼は「え? あ、ちょっ……」と慌てた様子で一歩下がった。そして片手を上げると腕で顔を隠すようにして再び俯いてしまう。その顔が赤くなっていることに気づき、音羽は「えっと、どうしたの?」と首を傾げた。


「どうしたのって、だって、崎山さんが急に――」


 しかし涼の声は最後まで聞こえない。ただ顔を真っ赤にして俯いているだけだ。音羽は困惑しながらそんな彼女を見つめた。食事を終えた生徒が音羽たちを見ながら通り過ぎていく。その視線の先を見て音羽はようやく合点がいった。


「あー、そっか。ごめんね、下村さん」

「え……?」

「手、繋いだりなんかしちゃって。嫌だったよね」


 仲が良い相手ならまだしも親しくもない相手に手を繋がれたら嫌な気持ちにもなるだろう。そう思って手を離そうしたのだが、なぜか涼はその手を強く握ってきた。


「……嫌じゃないから」


 俯いたまま彼女は小さな声で言う。


「えっと、でも――」

「嫌じゃないから!」


 涼は強い口調でそう言うと「行こう!」と今度は音羽を引っ張って歩き出した。向こうからクラスメイトが歩いて来ては怪訝そうな表情で音羽と涼を見てくる。それでも構わず彼女は食堂へと音羽を引っ張って歩き続ける。

 音羽は彼女の斜め後ろを歩きながら繋いだままの手へ視線を向けた。


「……下村さんって体温高いよね」


 ずっと繋いでいたからだろうか。さっきよりも温かい気がしたのでそんなことを呟いてみると、彼女は前を向いたまま「崎山さんだってそうでしょ」と言った。そうなのだろうか。普段から熱を測ることもないので自分の平熱がよくわからない。


「へえ、わたしも体温高いんだ」


 他人事のように呟きながら繋いだ手をギュッと握ってみる。しかし、やはり涼の方が温かい気がする。


 ――理亜は平熱低そうだな。低血圧だったし。


 そんなことを考えているうちに辿り着いた食堂には、美味しい匂いと温かな空気が広がっていた。

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