第9話

 ごめんね、と彼女は繰り返す。そうしながらポンポンと背中を優しく叩いてくれる。そのたびに彼女の髪が揺れて良い香りがした。

 記憶にあるよりも短くなった髪。音羽が知っている香りとは違うシャンプーの香り。それでも、その温もりや柔らかさは同じ。

 音羽は目を閉じ、彼女の手の動きと身体の温もりを感じていた。彼女が間違いなくそこに存在していることを確認するために。そして「ねえ、理亜」と彼女の名を呼ぶ。ポン、と音羽の背中を叩いていた手が止まった。


「なに?」


 彼女は否定しなかった。自分が理亜ではない、と。音羽は目を開け、そっと身体を離して彼女の顔を見つめる。

 以前よりも大人びたメイクだった。けれど元々大人っぽい容姿をしていた彼女にはよく似合っている。ほんの少しだけ笑みを浮かべたような表情は、どこか悲しそうに見える。そんな彼女に向かって音羽は聞いた。


「あの死体、誰?」


 すると彼女は考えるように視線を遠くへ向けた。そして無言のまま岸壁に設置された柵へ移動すると、背中越しに寄りかかる。


「あれはね、わたし。もう一人の」

「……なに? どういう意味?」

「どういう意味だと思う?」


 意地悪そうな顔で彼女は言う。音羽は眉を寄せながら考える。次第に冷静になってきたのか、思考は戻ってきていた。しかし彼女の質問に対する答えが出るわけもない。しばらく考えてから「双子、とか?」と小さな声で聞く。

 彼女はニヤリと笑ってジャケットのポケットから折りたたまれた紙を取り出した。そして音羽に見えるように手元で開く。海風に吹かれた紙は今にも飛んでいってしまいそうにバタバタとはためいた。


「これね、戸籍謄本。昔とったんだけどね。ここには理亜と瑠衣の名前しかない。あ、瑠衣のこと知ってるっけ?」

「うん。昨日、寮に来たから」

「寮に?」


 彼女は怪訝そうに眉を寄せた。


「昨日、理亜を図書館の近くで見たんだって。それで、もしかしたら寮に戻ってくるかもって思ったらしくて部屋に忍び込んでた。混乱してたよ、すごく……」


 すると思い当たる節があったのか、彼女は「そっか。そりゃ悪いことしたな」と申し訳なさそうに微笑んだ。


「あいつ、元気だった?」

「……寂しそうだったよ。たぶん、親とも上手くいってないんじゃないかな」

「そうなの?」


 音羽は頷く。


「自分がいなくても気づかないし心配もしないって言ってたから、たぶん」

「ふうん。あの人たちも堪えてんのかな。娘を二度失って……」


 それを聞いて音羽は首を傾げた。


「どういう意味?」


 しかし彼女は答えず、手に持っていたペットボトルを地面に置いた。そしてじっと音羽の顔を見つめていたかと思うと「ねえ、音羽」と静かな声で言った。


「わたしが人殺しだったらどうする?」


 屈託のない笑顔を夕陽が真っ赤に染めている。大きな波が岸壁を打って砕けた。飛び上がった数滴のしぶきが彼女の背中の向こうに落ちていく。まるで、大切な何かが砕けてしまったかのように。


「音羽、聞いてる?」


 笑みを浮かべたまま彼女はゆっくりと近づいてくる。そして、その手をそっと音羽の頬にあてた。

 さっきまでペットボトルを持っていたからだろう。少し冷たいけれど柔らかで温かな手。目の前で音羽を見つめる彼女の瞳もまた柔らかくて、綺麗で……。その瞳を見つめた瞬間、一気に理亜との思い出が溢れ出した。


「……っ」


 声を我慢しても、溢れてくる涙を堪えることはできない。全ての感情を閉じ込めていた器が壊れてしまったかのように涙が止まらない。


「音羽……」


 彼女は少し困ったような顔をして首を傾げる。両手で音羽の顔を包み込むようにしながら。

 死んでしまったはずの彼女との再会。嬉しくて切なくて胸が苦しい。だけどこの苦しみはきっと、理解してしまっているからだ。

 この再会が意味することを。

 あの棺で眠っていたのは紛れもなく理亜の顔をした誰かだったということを。

 理亜の代わりに誰かが死んだのだということを。

 音羽は泣きじゃくりながら彼女の瞳を見つめていた。優しくて透き通っていて、しかしどこか不安そうな瞳だった。それは素直じゃない理亜が、たまに見せていた瞳と同じ。


 ――助けて。


 そう彼女の声が聞こえてくるようだ。だったら、答えは一つしかない。


「助けるよ」


 音羽はなんとか呼吸を整えながら言った。


「え……?」


 不安そうな瞳に驚きの色が混じる。音羽は涙を両手で拭いながら「助ける。わたしが理亜を」と強い口調で言った。


「――助けるの?」


 目を見開いて呟くように言う彼女の表情は、心から驚いているようだった。音羽は微笑む。彼女を安心させるために、精一杯の笑みを浮かべる。


「うん。助ける。絶対に」

「……そっか」


 助けちゃうんだ、と彼女は呟いて俯いた。そして音羽の頬から手を放し、一歩後ろに下がる。そのとき誰かのスマホが鳴り始めた。音羽のものではない。それは理亜のジャケットから聞こえてくるようだ。

 彼女はポケットからスマホを取り出すと、その画面を見てから顔を上げた。


「音羽、ごめんね。また連絡するから」


 弱々しい笑みでそう言うと、彼女は鳴り続けるスマホをタップして耳にあてた。


「もしもし?」


 緊張したような理亜の声が遠ざかっていく。どんな会話をしているのか、相手が誰なのか何もわからない。

 音羽はタブレットを抱きしめながら一歩、理亜の方へ足を踏み出した。その足が地面に置いていたペットボトルを蹴ってしまい、鈍い音を立ててボトルが倒れた。転がるボトルの中で炭酸が泡となって消えていく。

 慌ててペットボトルを手にして身体を起こすと、そこにはもう理亜の姿はなかった。

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