第二章 再会

第8話

 バスに揺られて海辺の公園に到着した頃には太陽は海の向こうへ沈みかけていた。公園にはまばらに人の姿があったが、おそらくは観光客だろう。係船堀の船と夕日を背景に記念撮影をしたり、楽しそうに海を眺めている。

 音羽はそんな穏やかな時間が流れる公園を歩きながら周囲を見渡した。

 どうやら瑠衣の姿はない。そして理亜に関係がありそうなものも何もなかった。そもそも、彼女がこの公園に来たことがあるのかどうかすら音羽は知らない。いや、きっと来たことはないはずだ。

 去年の夏休み、食堂で理亜が友達から海へ遊びに行かないかと誘われていたことがあった。そのとき彼女はその誘いを即答で断っていたのだ。向かい合って食事をしながら誘いを断った理由を聞くと、彼女は「苦手なんだよね、海」と苦笑を浮かべていた。


「ふうん。なんで? 泳げないとか?」

「泳げるけど、海って風とかベタベタするじゃん。潮のせいで髪がバッサバサになるしさ」


 彼女は言いながら髪を軽く掻き上げる。ミルクティー色をした細い髪がサラサラと流れた。


「水着、似合うと思うよ?」


 音羽が言うと理亜はニッと笑って「うん、だろうね。それはわかってる。わたしはどんな水着でも似合う気がする」と深く頷いた。


「だったら行けばいいのに。せっかく誘ってくれてるのにさ」

「んー、まあね」


 彼女は考えるように言って箸を置いた。そして音羽を見つめてくる。音羽が首を傾げると、彼女は「音羽も一緒だったら行ったんだけどね」と微笑んだ。


「今度行こうよ。海水浴じゃなくても、あの海の近くの公園とかさ。あそこって景色が綺麗らしいじゃん」

「一緒に?」

「うん。二人で」


 しかし結局、理亜と一緒にこの公園へ来ることはなかった。こんなに近い場所なのだからいつでも来れる。きっとお互いにそう思っていたから。だから少なくとも高校に入学してから理亜はここへは来ていないはずだ。

 これは瑠衣が気まぐれに思いついたイタズラだったのだろうか。そんなことをするような子には見えなかったが、彼のことをよく知っているわけでもない。もしかすると彼も音羽のことを責めているのかもしれない。

 どうして理亜を助けられなかったのか、と。

 音羽は自然と深くため息を吐いて立ち止まった。

 海の向こうに沈んでいく太陽は空を赤く染めている。吹き抜ける乾いた風には潮の香りが強く混じっていた。そんな秋の海風を受けながら、音羽はぼんやりと海を眺める。

 夕陽を受けてキラキラと光る海。波の音は心地良く耳に響き、遠くでは悪意も何もない楽しそうな笑い声だけが響いている。

 いつ以来だろうか。こんなにものんびりとした風景を眺めるのは。

 ギュッと萎縮し続けていた気持ちが、ほんの少しだけ楽になった気がする。

 瑠衣は今夜も来るだろうか。もし来てくれたら話をしてみよう。別に許してもらおうなんて思わない。ただ、少しでも瑠衣の気持ちが穏やかになることができれば。

 そう思ったとき、いきなり頬に冷たい何かが触れ、音羽は短く悲鳴を上げて振り返った。


「びっくりした?」


 懐かしい声。そこにはイタズラが成功した子供のような笑みを浮かべた少女が両手に炭酸飲料のペットボトルを持って立っていた。彼女はそのうちの一本を「はい」と音羽に差し出す。


「あげる」


 しかし音羽はそれを受け取ることができない。あまりの衝撃に手を動かすことができなかった。思考が追いつかない。呼吸すらも忘れているのか胸が苦しい。何がどうなっているのかわからない。

 だって、目の前で無邪気な笑みを浮かべている彼女は――。


「――理亜?」


 しかし彼女は「違うよ」と穏やかな口調で答えた。そして音羽の手を取ってペットボトルを渡す。温かな手だった。


「飲みなって。わたしの奢りだから」


 ニッと笑って彼女は自分が持っているペットボトルの蓋を開けた。炭酸が抜ける爽やかな音が響く。強い風が吹いてミルクティー色の髪がサラサラ揺れる。音羽は彼女がジュースを飲む姿を見つめながら「ねえ。理亜、なんだよね?」と声を絞り出す。掠れた声は風と波の音に掻き消されてしまいそうだった。それでも彼女には届いたのだろう。


「違うよ」


 彼女はペットボトルを持った手を下ろし、困ったような笑みを浮かべた。


「だって宮守理亜は死んだもん。知ってるでしょ?」

「でも――」

「ね、音羽。タブレット持ってきた?」


 彼女は音羽の言葉を遮ってそう言った。音羽は「え……」と眉を寄せる。

 タブレットのことを知っている。なによりも、音羽のことを彼女は知っている。彼女は理亜だ。この顔を、この声を、そしてこの仕草を音羽が間違えるわけがない。


「……なんで、わかったの? タブレットを充電したこと」

「スマホでね、わかるようにしてたんだ。電源入ったら通知が来るようになっててさ。ちょっと貸してくれる?」


 わけがわからないまま音羽はペットボトルを地面に置き、タブレットを取り出して彼女に渡す。すると彼女は迷うことなくロックを解除した。そして画像を表示させてから音羽にタブレットを戻す。そこに表示されているのは保存されていた画像の中で一番古い、ピアノコンクールの記事だった。


「それ、理亜なの?」

「ううん。これは香澄美琴。書いてあるじゃん」


 音羽は彼女の顔を見つめる。彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。いつも、あの部屋で音羽に向けてくれていたのと同じ笑みを。


「ねえ、待って。ちょっと、わけわかんない。理亜なんでしょ? なんで違うって言うの?」


 タブレットを抱きしめながら音羽は声を振り絞る。声が掠れているのは喉がカラカラになっているからだった。

 手が震えている。

 思考がまとまらない。

 混乱が収まらない。


「なんで……」


 音羽は浅く呼吸を繰り返しながら彼女を見つめた。彼女は穏やかな笑みのまま、音羽に手を伸ばした。そしてそっと背中に腕を回して音羽を引き寄せる。


「ごめん。そんな顔しないでよ」


 耳元で囁くように彼女は言う。


「ごめんね、音羽。びっくりさせちゃったね。ごめん」


 聞きたかった声が自分の名前を呼んでくれている。音羽は彼女の肩に額をつけ、その声を聞いていた。

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