第7話
授業が終わると音羽はまっすぐに寮へ戻った。部屋のドアを開け、鞄を床に放り投げてベッドの上を覗く。 そして目を見開いた。今朝、そこに置いたはずのタブレットがないのだ。
慌てて布団をひっくり返してみたが、どこにもタブレットは見当たらない。
「そんな……」
呟きながら部屋を見渡す。床にはない。テーブルにもない。では勉強机はどうだろう。思いながらそちらに視線をやった音羽は「え……」と声を漏らした。二つ並んだ勉強机のうちの一つ。理亜が使っていた机の上に、あの白いタブレットが置かれてあったのだ。
心臓がドクドクと鳴っているのがわかる。どうしてタブレットが移動しているのだ。
「なんで、これ」
机に近づきながら音羽は呟く。タブレットの上にはメモ用紙が一枚置かれてあった。そこに書かれているのは六桁の数字。普通に考えてタブレットのロックを解除するパスコードだろう。
音羽はそのメモ用紙を手に取って窓へと視線を向ける。そういえば鍵は開けたままだった。誰かが窓から入ってきたのかもしれない。そしてわざわざタブレットを理亜の机に移動させ、このメモを置いた。
――誰がそんなことを。
「理亜……?」
そんなはずない。彼女は死んだのだ。
そう思う自分と、昨日見た彼女は本当に理亜だったのではないかと思う自分が心の中で衝突している。
音羽は一度深呼吸をしてからタブレットのホームボタンを押す。するとパスコードを入力する画面が表示された。
煩く鳴っている心臓の音を耳の奥で聞きながら、一つずつ、ゆっくりとメモに書かれた数字を打っていく。そして最後の一桁を打ち終わった瞬間、タブレットの画面はあっけなく開いた。
「これ、ほんとに――」
音羽は急いで窓を開けて外へ顔を出す。しかしそこから見えるのはブロック塀だけだ。左右を見ても誰かがいる気配はない。ただ、地面には無数の足跡が残っていた。週に一度は寮の周りを生徒たちが掃除しているので、きっとそのほとんどは掃除をした生徒たちのものだろう。瑠衣の足跡だってあるはずだ。どれが誰の足跡かなんてわかるはずもない。
音羽はため息を吐きながら机に戻った。そして椅子に座ってタブレットを触る。その中にアプリは何一つ入っていなかった。音楽すら一曲も入っていない。ネットの閲覧履歴もなければメールの送受信履歴も何もない。唯一残っているのは画像データだけだった。
音羽はフォルダに残されている画像一覧を眺めて眉を寄せた。
残されていたのは新聞記事や風景だけだ。人物が被写体になっているものは一つも無い。その中でも一番古い画像は四年前に保存されたものだった。
「新聞記事……」
それは新聞から切り取ったのだろう、ピアノコンクールの記事だった。いつ開催されたものなのかはわからないが、小学生の部で最優秀賞を受賞した少女の名前と顔写真がある。あどけない顔で微笑む少女は十歳くらいだろうか。
その少女の顔を見て、音羽はさらに眉を寄せた。理亜にとてもよく似ていたのだ。しかし記事に書かれている名前には香澄美琴とある。
「理亜じゃない……?」
呟きながら次の画像へとスライドさせる。すると、それもまたピアノコンクールの記事だった。そこに書かれている名前も香澄美琴。そのまた次の画像も同じだ。どうやら香澄美琴という少女は数々のコンクールで優秀な成績を収めているようだった。それから同じように新聞記事の画像が数枚続いたあと、今度はどこかの街の風景が続くようになった。
住宅街。バス停。病院。学校。そして大きな一軒家。どれも特別なものではない。綺麗な風景でもない。どこにでもありそうな、ただの街並みだ。そんな画像が続いたあと一番最近の画像で音羽は思わず手を止めた。
それは海辺の公園。
「ここ……」
見たことがある。ここは間近で船を見ることができると観光客に人気の公園で、寮からバスで十五分ほど行った先にある。音羽はその画像が撮影された日付を見て息を呑んだ。表示されていたのは今日の日付だったのだ。時刻は十三時三十四分。
「え、なに。どういうこと」
呟きながら音羽は考える。十三時頃ならば充電も終わっている頃だろう。充電が終わった頃を見計らって誰かがタブレットを持ち出し、この公園を撮影して戻したということだろうか。それができそうな人物に思い当たるのは理亜以外には一人だけ。瑠衣だ。
彼ならば、このタブレットが理亜のものだと知っていたかもしれない。パスコードも知っている可能性はある。この部屋に忍び込むこともできただろう。
しかしどうしてわざわざタブレットを持ち出し、再び戻したのか理由がわからない。メモにもパスコードしか書かれていない意味がわからない。何かを伝えたいのならそう書けばよかったはずだ。
音羽はタブレットに写るキラキラした海を見つめ、そして時計に視線を向けた。まだ門限には時間がある。
――行ってみようかな。
行って何があるとも思えない。もしかすると瑠衣はまた今夜来るつもりで、そのときに何か伝えようとしているのかもしれない。言葉でしか伝えられない何かがあるのかもしれない。あるいは、この場所に行かなければ伝わらない何かがあるのかも。
しばらく考えてから、音羽はタブレットをバッグに入れて部屋を出た。
「あ、崎山さん」
ふいに声をかけられて前方を見ると、制服姿の涼が玄関から向かって来るところだった。帰寮したところだったのだろう。彼女は眉を寄せて首を傾げる。
「今から出るの? 制服で」
言われて初めて制服のままだったことに気づく。しかし今更着替えに戻るのも面倒だ。音羽は頷いた。
「ちょっとね。行きたいところがあって」
「でも、体調は? 今日遅刻したのだって調子がわるいからじゃ……?」
心配そうに言う彼女に音羽は微笑んだ。
「平気。もう大丈夫だから。今日は食器を調理場に返却してたら遅れちゃって」
その言葉に彼女はハッとしたように「ごめんね」と勢いよく謝った。何に対して謝られたのかわからず、今度は音羽が首を傾げる。
「渡すだけ渡しといて片付けのこと考えてなかったから。朝、取りに行けばよかったね」
「なんで?」
思わず音羽は笑ってしまう。
「いくらクラス委員でもそこまでする必要ないよ。わたしが食べたんだから、わたしが片付けるのは当たり前でしょ」
「食べて、くれたの……?」
涼はわずかに目を見開いてそう聞いた。音羽は頷く。
「あのあと、すぐに全部食べちゃった。やっぱりお腹減ってたみたい」
「そう……」
彼女は頷くと「そっか。よかった」と嬉しそうに笑みを浮かべてもう一度頷いた。綺麗な笑顔だなと音羽はぼんやりと思う。彼女のこういう笑顔を初めて見た気がする。考えてから、そもそもあまり人の顔を見ない音羽には誰がどんな顔で笑っているかなど知っているわけもないと気づく。
音羽が知っている笑顔は理亜が見せてくれた色んな笑顔だけだ。
思い出しながら微笑んでいると、涼は「崎山さん?」と不思議そうな表情を浮かべた。音羽は首を横に振って「じゃあ、行ってくるね」と玄関へ向かう。
「あ、気をつけてね」
「うん」
音羽は素直に頷き、寮を出る。玄関を出ながらなんとなく振り返ると、涼が嬉しそうな笑みで音羽のことを見送っていた。
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