第5話
どのくらいそうしていただろう。食事を終えた生徒が戻ってきたのか、隣の部屋から物音が聞こえてくる。瑠衣はようやく落ち着いてきたらしく、スンスンと鼻を鳴らしながらも泣き止んでいた。
「瑠衣くん。そろそろ帰らないとお母さんたち心配するよ?」
手を下ろし、彼の顔を覗き込みながら言う。すると彼は俯いたまま視線だけを音羽に向けて「やだ」と短く言った。
「やだ……?」
「帰らない」
言って彼はゴロリとベッドに横になって音羽に背を向ける。
「え、ちょっと瑠衣くん?」
「別に心配なんかしないよ。俺がいなくても気づかないだろうし」
「でも――」
「ここにいると落ち着く。理亜の匂いが残ってる気がする」
布団を抱きかかえてそう呟く彼の背を、音羽はため息を吐きながら見つめた。そして「しょうがないな」と立ち上がる。
「……泊めてくれるの?」
少しだけ明るい声。彼は顔だけを振り向かせて音羽を見ていた。我が儘を聞いてもらったような、ちょっとだけ子供らしい表情で。
「ちゃんと家に連絡したらね。友達の家に泊まるとか、ウソでもいいから何か連絡しといたほうがいいよ。スマホ持ってる?」
音羽が言うと彼は拗ねたように眉を寄せ、ため息交じりに「わかったよ」とパーカーのポケットからスマホを取り出した。そして寝転んだままメッセージを打ち始める。どうやら頑固なようでいて素直な性格のようだ。少し、理亜に似ている。
寮に部外者を泊めるなど、バレたら大変だろう。しかしこのまま追い返しても彼が家に帰るかどうかわからない。男の子といっても、まだ子供だ。それに理亜の弟。一晩くらいなら泊めても構わないだろう。
寝転んだままスマホを眺めている彼の横顔は疲れ果てているように見えた。理亜の荷物を引き取りに来たあの日よりも小さく見えるのは頬が痩けているからだろう。
「……ご飯は?」
声を掛けると彼は一瞬視線を音羽に向けた。そして「食べた」と短く答えるとスマホに視線を戻す。
「ほんとに?」
「お前こそ、ちゃんと食ってんのか?」
「え……?」
「不健康そうな顔してる」
それはお互い様だ。思ったとき、ドアをノックする音が響いた。音羽は瑠衣を見る。彼は音羽に背を向けたまま微動だにしない。
ドアを開けただけではベッドまでは見えないはず。しかし一歩でも中に入れば見えてしまう。
このままいないふりをしようか。考えていると再びノックの音が聞こえた。
「崎山さん?」
遠慮がちに聞こえた声は涼のものだ。居留守はできそうにない。
「ちょっと静かにしててね」
音羽は瑠衣にそう声をかけると部屋の電気を消してそっとドアを開けた。ドアの隙間から見えたのは両手でトレイを持った涼だった。彼女は音羽を見ると力なく微笑んだ。そして室内の電気が消えていることに気づいたのか「あ、ごめんね」と申し訳なさそうに眉を寄せる。
「もう寝るところだった?」
「……それ、なに?」
彼女の言葉には答えず、その手元に視線を向ける。トレイに乗っているのはラップが被せられたコーンスープとサラダ、そしてこんがり焼かれたトーストが一枚。
「朝ご飯みたい」
「あ、うん。食欲ないって言ってたけど軽めのものなら食べるかなと思って。さっき調理場を借りたの」
音羽は目を丸くして彼女を見た。
「作ったの?」
「作ったっていうか、スープはインスタント。サラダは今日の夕食のメニューで、パンはわたしが焼いたけど。トースターで」
涼は苦笑しながら言うと「余計なお世話だっていうのはわかってるんだけど……」と俯いた。
「きっと何も食べないまま寝ようとしてたでしょ?」
音羽は困惑しながら首を傾げた。
「なんで、こんな」
「だって崎山さん、最近すごく痩せた気がするから」
音羽は眉を寄せる。たしかに体重は落ちたような気がする。しかしそれと彼女が音羽のために食事を運んでくるのと、どう関係があるのかわからない。今までクラスメイトということ以外の接点は何もなかったのだ。こんなに心配される理由がわからない。
困惑が表情に出ていたのだろう、彼女は「えっと」と薄く微笑んだ。
「――ほら、わたしクラス委員だから。クラスの子が体調悪そうなのを知っていながら放っておくっていうのも、ね」
「そっか……」
「うん。だから、はい」
言って彼女はトレイを音羽に手渡した。
「全部食べなくてもいいけど、スープくらいは飲んで欲しいな。味は保証するから」
「インスタントだもんね」
思わず笑みを浮かべて言うと彼女は驚いたような表情を浮かべた。そしてすぐに微笑んだ。とても、嬉しそうに。
「じゃあ、わたしはこれで。おやすみなさい、崎山さん」
言って彼女は背を向ける。
「……ありがとう。下村さん」
ドアを閉めながら声をかけると彼女はぴたりと足を止めた。
「――うん」
ドアを閉める瞬間、背中を向けたままの彼女が、小さく頷いたのが見えた。
音羽はトレイを持ったままドアに背をつけてため息を吐く。今日はイレギュラーなことが多すぎる。この半年間、物事を考えることを拒否していた脳が一気に動き出した気がする。
「疲れた……」
呟くと同時に、お腹がクゥッと鳴った。ラップが被せられたスープはまだ温かいのだろう。ラップと器の僅かな隙間から甘くて良い香りがする。
瑠衣も食べるだろうか。思いながらトレイをテーブルに置いて部屋の電気を点けた。
「瑠衣くん、ご飯――」
しかし、音羽はベッドを見て口を閉ざす。彼は仰向けになって眠っているようだった。理亜の布団を抱きかかえるようにして静かに寝息を立てている。
あどけない寝顔。その目尻には涙が光っていた。
音羽は息を吐いて彼の頭をそっと撫でてやる。瑠衣は小さく唸って寝返りを打った。
「おやすみ」
小さく声をかけてベッドのカーテンを閉めると、音羽は音を立てないようにそっとテーブルの前に座った。スープの器に手を添えると、じんわりと温もりが伝わってくる。なんだかホッとする温かさだ。音羽は自然と微笑みながらスプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。
「美味しい……」
久しぶりに味わうインスタントスープは、とても優しい味がした。
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