第4話
混乱した思考のままフラフラと寮へ戻ると、玄関に入ったところで「おかえりなさい」と声をかけられた。視線を向けた玄関ホールでは来客用の椅子に涼が座っていた。
「……下村さん。何してるの?」
「待ってた。あなたを」
言って音羽を見つめる彼女は、やはりどこか気まずそうな表情を浮かべている。
「もしかして門限過ぎてた?」
玄関の窓から見える外は、すっかり暗闇に包まれていた。今は何時だろう。時間すら確認していなかったことに気づく。しかし涼は首を横に振る。
「そうじゃなくて、食事」
彼女は立ち上がると音羽の前まで来て言った。
「え?」
「今日、朝も昼も食堂に来てなかったでしょ? 昨日だって……。最近、休みの日はほとんどそんな感じなんじゃないかと思って」
「別に、ほっといてくれていいのに……」
口の中で呟いた言葉は彼女には届かなかったらしい。涼は「え?」と首を傾げた。音羽は「大丈夫」と笑みを顔に張りつかせる。
「部屋にパンとかカップ麺とかあるから」
「そういう問題じゃなくて」
「クラス委員だから心配してくれてるんでしょ? でも大丈夫だから。別に食事を抜いたりしてるわけじゃないし、平日はちゃんと食堂で食べてるし」
言いながら彼女の横を通り抜けようとしたとき、その手を掴まれた。食い込んでくるほどの強い力で掴まれ、音羽は驚いて振り返る。怒らせたのか。そう思ったが、涼はなぜか心配そうな視線を音羽に向けていた。
「あの、えっと、大丈夫?」
「だから大丈夫だって――」
「違う。そうじゃなくて、なんか顔色が悪いから」
音羽は片手で自分の頬に触れてから「平気だよ」と笑みを作る。そして彼女に掴まれている手を軽く振った。
「下村さん。放して。痛いから」
「あっ! ごめん!」
慌てて手を放した彼女は、またあの表情を音羽に向けた。
彼女が音羽に話しかけてくるのは彼女がクラス委員で生徒の寮生活を監督する責任があるからだ。きっと最近の音羽の生活態度が寮の規則から外れているから仕方なくこうして声をかけてきたのだろう。だから、こんなにも気まずそうにしている。
「あの、崎山さん。今から一緒に食堂へ行こ?」
緊張したような声だった。気を遣ってくれているのだろう。音羽は微笑んでから首を左右に振る。
「今日は食欲ないから、もう部屋に戻るね」
「……そう」
俯きながら彼女は頷く。
「でも、少しでもいいから食べてね。ちゃんと」
「うん」
音羽は頷いて部屋に向かう。歩きながらチラリと振り返ると、涼は自分の手を見つめるようにして玄関ホールにポツンと立ち続けていた。その姿はなぜか悲しそうに見えた。
音羽は廊下を歩きながら気持ちを落ち着けようと深く呼吸を繰り返す。そうしながら部屋のドアを開けて中に入った瞬間、フワッと吹いてきた冷たい風に呆然と立ち尽くした。
窓が開いていたのだ。
乾いた冷たい空気が部屋を包み込んでいる。そんなはずはない。出掛ける前はちゃんと閉まっていた。だが、鍵をかけたかどうかは覚えていない。
「誰が――」
呟きながら窓の方へと数歩進む。そのとき、視界にもぞりと動く影が映った。音羽は驚きのあまり声を出すこともできずにそちらへ視線を向ける。
理亜が使っていたベッド。そこに誰かが横たわっていたのだ。脳裏に浮かんだのは、さっき見かけた理亜の姿。音羽は慌てて部屋の電気をつけた。
「理亜……?」
呼びかけながら再びベッドに近づく。しかし違う。理亜よりも小さな身体。
子供だ。
華奢な身体を抱え込むようにしながら横になったその人物は、眩しそうに眉を寄せている。その顔には見覚えがあった。
――理亜、なんで死んだの?
耳の奥に蘇る悲しげな声。その子は、理亜の弟だった。
「なんでここに……」
よく見れば布団が袋から出されている。理亜が使っていた布団を抱えるようにしながら彼は眠っていた。
――もう、わけがわからない。
自然とため息を吐きながら窓へと近づく。外を覗くと彼の物だろうスニーカーが放り投げたように脱ぎ捨ててあった。腕を伸ばしてそれを拾うと、部屋にあったビニール袋に入れて窓の近くに置く。そのとき「ここ、理亜のベッドでしょ」と声がした。驚いて振り返ると、彼は身体を起こして音羽の方へ視線を向けていた。
「……あなた、理亜の」
「
彼は寂しそうにそう言った。
「理亜から……」
彼女は音羽のことを家族に話していたのか。いったいどんな話をしていたのだろう。
――変な話じゃなかったらいいけど。
音羽は少しだけ微笑んでから「瑠衣くん」とベッドの前に腰を下ろす。
「窓から入ったの?」
彼は音羽の顔を見ようとはせず、俯きながら頷いた。
「どうして?」
聞くと、彼は顔を上げた。しかし迷うように視線を泳がせる。
「どうしてここへ?」
さらに聞くと彼は「――見たんだ」と消え入りそうな声で答えた。
「さっき、図書館の近くで」
音羽の心臓がドクンと脈打った。図書館はあのコンビニからそう離れていない場所にある。音羽は無意識に膝の上で両手を握りしめながら「何を見たの?」と訊ねる。
「理亜」
彼は、はっきりとそう言った。そして今にも泣き出しそうな顔で「あれ、絶対に理亜だったんだ」と続ける。
「でも何度呼んでも振り返ってくれなかった。追いかけようと思ったんだけど人が多くて追いつけなくて……。だから、もしかしたら理亜、ここに戻ってくるんじゃないかって」
いてもたってもいられずに来てしまったのだろう。彼は肩を震わせながら俯いた。
「理亜、本当に死んだんだよね?」
何も答えることができなかった。
自分もさっき彼女を見た。
そんなこと言えるわけがない。だって彼も音羽も彼女を見送ったのだ。棺で眠る彼女の姿が、しっかりこの目に焼き付いているのだから。
「わかってる。わかってるんだ。あれはたぶん幻か何かで、ここに来たって理亜は戻ってこない。わかってるのに……」
両足を抱え込み、小さく丸まりながら「俺、変になっちゃったのかな」と彼は言った。
――だったらきっと、わたしも変になっちゃったんだ。
音羽は彼の頭に手をやって撫でてやる。彼は一瞬ビクリと身体を強ばらせたが、すぐに息を吐いてその力を抜いた。
「理亜みたいだ」
音羽は微笑む。
「うん。わたしもね、よくこうやって励ましてもらったんだ。理亜に」
すると彼は少しだけ顔をあげて「そっか」と悲しそうに微笑んだ。そして抱え込んだ膝に視線を落とす。
「――約束、してたのにな」
「え……?」
「映画、連れてってくれるってさ。俺が親とケンカして拗ねてたら、こうやって頭撫でてくれて。今度一緒に行こうって、言って――」
彼はしゃくり上げながら泣いていた。小さな身体を、もっと小さくして。音羽はそんな彼の頭を優しく撫でてやる。細くてサラサラした髪が音羽の指の間を滑るように流れた。
理亜の代わりになれるわけもない。けれど、きっと理亜ならこうやって泣いている彼を慰めたはずだから。
そうしながら音羽は、ぼんやりと考えていた。
理亜は本当に死んだのだろうか。あれは瑠衣と音羽の喪失感が見せた幻だったのだろうか。
――彼女に会えるのなら、それでもいいのに。
静かな部屋には瑠衣のしゃくり上げる声だけが響いていた。
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