第3話
それからの日々は流れるように過ぎていった。
学年が変わり、クラスが変わり、そして新しい生活が始まって理亜の存在は瞬く間に学校から薄れていった。学校側から音羽の部屋を別室に移動する案も出されたが、音羽はそれを頑なに断った。
みんなが忘れていく理亜の存在を音羽だけは覚えておきたかったから。しかし、すでにこの部屋からも理亜の痕跡は消えつつある。
二段ベッドの彼女が使っていた下のベッドには、クリーニングから戻ってきた布団が袋に入ったまま置かれてある。彼女が使っていた荷物は何一つ残っていない。
あの日、二人で一緒に段ボールから出して片付けた彼女の物も、何も。
理亜の家族が荷物を引き取りにきたのはいつのことだっただろう。葬儀が終わって数日ほど経った頃だっただろうか。
憔悴しきった顔で淡々と理亜の荷物を段ボールに詰め込んでいく彼女の両親は、一度だって音羽の顔を見ることはなかった。
一つ、また一つと部屋から消えていく理亜との思い出を、音羽は部屋の隅に立って眺めていた。その隣に立つ彼女の弟もまた、同じように。
小学生くらいだろうか。理亜とはあまり似ていない顔立ちの少年だった。思えば彼女から家族の話を聞いたことがない。弟がいたことを知ったのも、そのときが初めてだ。
彼女は自分のことよりも音羽のことを知りたがっていた。だから音羽は昔の彼女のことは何も知らない。知っているのは、この寮で暮らし始めてからの彼女だけ。
どうして何も話してくれなかったのだろう。
どうして自分は何も聞かなかったのだろう。
そんな思いがないわけではない。けれどもう、今更だ。今更彼女のことを知ったところで理亜が戻ってくることはないのだから。
「――理亜、なんで死んだの?」
すぐ隣で呟かれた悲しそうな声に視線を向ける。理亜の弟は泣き腫らした目で両親の動きを眺めていた。耐えるように、その薄い唇を震わせながら。
――どうして。
そんなこと誰にもわかるはずがない。ただ一つはっきりしていることは、もう彼女はこの世のどこにもいないということだけだった。
日曜日の夕暮れ。静かな部屋にため息が響いた。
――また、一日が終わる。
音羽はベッドに仰向けに寝転んだまま閉じていた瞼を開けた。白い天井は窓から射し込む夕日によって赤く染まっている。
理亜の葬儀が終わり、周囲から彼女の気配が消えて半年。音羽は機械人形のように淡々と日々を過ごしていた。
起床、登校、下校、就寝。その繰り返し。
友人もいない。楽しいことも悲しいことも何も感じない。音羽の心は、あの葬儀の日に鍵をかけたまま時間が止まっているようだった。
寝転んだ身体を横にして、壁際に二つ並んだ勉強机へ視線を向ける。
ここから眺める理亜の背中が好きだった。
音羽の名を呼んでくれる柔らかな声が好きだった。
音羽が落ち込んでいるときに優しく頭を撫でてくれる手の温もりが好きだった。
寝起きが悪いところも、面倒くさそうにしながらも面倒見が良いところも、気が強いけど涙もろいところも、何もかも全部好きだったのに。
これから先もずっと彼女と一緒にいられると思っていたのに……。
音羽は彼女の席に向かってそっと片手を伸ばす。
この気持ちを彼女に伝えることは、もう永遠にできない。
いつでも伝えることができる。もしかすると言葉にしなくとも伝わっているのではないか。そんな都合の良いことを思っていた自分がバカに思える。
パタリとベッドに手を下ろし、音羽は再びため息を吐く。そのときクゥッとお腹が鳴った。
「……そういえば何も食べてないっけ」
ぼんやりと呟く。食事は部屋番号によって決められた時間内に食堂で食べるルールだ。けれど別に食事をとったかどうかのチェックをするわけでもないので、休日はときどき行くのを忘れてしまう。今日も朝から何も食べていないような気がする。
もう少し待てば夕食の時間になるだろう。時間になれば、みんなと同じ空間で食事をする。毎日が楽しそうな彼女たちの中に、たったひとりで。
――面倒だな。
部屋にストックしていたパンで空腹を満たそうかと思ったが、昨日の夜に最後の一個を食べてしまったことを思い出す。
音羽は深くため息を吐きながら重い身体を起こした。そして適当に身支度をして部屋を出る。
廊下には部屋へ戻っていく生徒たちの姿が多かった。休日を楽しんだのだろう。その顔に浮かぶ表情はどれも明るい。そんな彼女たちの中を音羽は玄関に向かって歩く。
誰も音羽を見ない。音羽の存在も、理亜と同じように忘れ去られたかのようだ。だけどそれが心地良い。もう、誰も音羽を責めるような目で見てはこないから。
そう思っていると玄関の手前で「崎山さん」と声を掛けられた。聞き慣れた声。立ち止まって振り向くと、そこにはクラス委員の
「なに、下村さん」
無視することもできないので、とりあえず返事をする。彼女は「どこ行くの? もうすぐ夕食だけど」と硬い口調で言った。
「コンビニ。すぐ戻るから」
「……そう」
それ以上、彼女は何も言わない。ただ気まずそうな表情で音羽のことを見てくるだけだ。何か言いたそうに。
理亜がいなくなってから、彼女はよくこんな顔で音羽のことを見てくる。しかし何も言わないのだ。クラス委員だから気を遣っているのか、それともまだ音羽のことを責め足りないのか。
――どっちでもいいけど。
音羽は彼女から視線を逸らすと「じゃあ」と短く言って寮を出た。
丘の上にある寮から一番近いコンビニまでは片道十五分ほど。寮へと戻る生徒たちの流れに逆らうように音羽はゆっくりと坂道を下った。
休日の夕方。街中には人が多く行き交っている。音羽はそんな人々に紛れるように歩いてコンビニに入った。そしていつものようにパンの棚へと向かう。そのとき、ふいにスナック菓子の棚が視界に入った。その一番目立つところに置かれていたのは理亜が好きだったスナック菓子。自然と音羽の足はその棚へ向いていた。
そしてスナック菓子を手にして微笑む。休日の夜は、いつもお喋りをしながら二人でこれを食べていた。
――太っても知らないよ?
そう言った音羽に、彼女は「平気、平気。太ったらそのとき考えたらいいじゃん」と笑いながら食べていた。
最後に一緒にこれを食べた日のことを思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。それほどまでに当たり前の日常だったのだ。
音羽は手にしたそれを棚に戻してため息を吐く。そしてパンの棚へ向かおうと顔を上げたとき、思わず目を見開いてその場に立ち止まった。
コンビニの前を一人の少女が通り過ぎていく。
ミルクティーのような髪色をしたショートボブ、音羽よりも頭一つ分ほど背の高い少女。白い肌に整った顔立ち。
無表情に前方を見つめて通り過ぎた彼女は、理亜に違いなかった。
「……ウソ」
呆然と呟きながら、音羽はふらりとコンビニの出入り口に向かう。フラフラとした足取りは、やがてしっかりと床を踏みしめて全力で駆け出す。
「理亜!」
コンビニを飛び出した音羽は勢い余って見知らぬ誰かとぶつかってしまった。それでも謝ることすらせず、そのまま駆け出す。彼女が歩き去った方へ向かって。しかし人の数が多すぎて彼女を見つけることができない。
――たしかに理亜だったのに。
だが、どんなに名前を呼んでも応えてくれる声はない。音羽は立ち止まって肩で息をしながら周囲を見渡す。
「幻……?」
しかしそれにしては変だ。だって、さっき通り過ぎた彼女は記憶にある理亜の姿そのものではなかった。髪型は変わっていたし、化粧だって変わっていた。服も理亜が好んで着ていたようなものではなかったような気がする。なにより、音羽は理亜のあんな表情を見たことはなかった。
あんな、何も感情がないような表情を。
しかし他人のそら似というわけでもない。間違いなくあの顔は理亜だったのだ。
「――どういうことなの」
呟いても答えがでるわけもない。音羽はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
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