第2話 気が付けば、独りぼっち

 翌朝、まぶしい朝陽が窓から差し込み、春男は慌てて起き上がった。

 いつもなら、この時間には慌ててスーツに着替え、朝食をかきこみ、最寄り駅までの道を早足で歩いていた。しかし、今日からはもうその必要はなかった。

 春男はパジャマ姿のまま階段を降りた。ダイニングテーブルに腰かけると、テレビをつけ、新聞を読んだ。しばらくすると、妻の成美が玄関のドアを開けて、新聞を読む春男のそばを通り過ぎた。


「おい成美! 一体、どこに行ってたんだ?」

「なんでそんなこと言わなくちゃならないのよ? 友達に会っておしゃべりしてきただけじゃない?」

「はあ? 一晩中何を話してるんだ?」

「そんなこと、あなたに話す必要はないわよ。どうせこれからまた仕事に行くんでしょ?」

「俺は昨日、定年退職になった。お前、知らなかったのか?」

「知らないわよ」

「知らないなんてことがあるか! 俺はお前に顔を合わすたびに、そう言ってただろう?」

「顔を合わす? 週に何回? 私たちが起きてる時間に帰ってきたことあったっけ? 私はあなたが仕事だの飲み会だのしてる時に、子ども達の世話を独りでやっていたのよ。匠が引きこもった時、立ち直らせようと必死に頑張ったのも、私だけだった。あなたに相談しても、無理難題をあーだこーだ命令するだけ。ここまでずっと、私一人でやって、私一人で全て解決してきたのよ。わかる?」


成美は人差し指を春男の目に突きつけるかのように差し出し、捲し立てるように話していた。


「……私はもう疲れちゃったのよ。最近は家族のことなんかほったらかしてるの。残り少ない人生、好きなように生きてやるって」


 そう言うと、成美は春男の傍をそそくさと通り抜けていった。成美はさっきまで春男が寝ていたベッドに倒れ込むと、そのまま深い眠りについてしまった。春男は成美の姿を見ながら、何も言えずに震える拳を握りしめていた。

 その時、玄関から物音がして、若い女性の声が聞こえてきた。春男は不審な人物が勝手に入って来たと思い、慌てて玄関に向かった。


「あれ?桃菜ももな?」

「あら、お父さん」


 玄関に居たのは、第二子で長女の桃菜だった。

 桃菜は看護婦として病院に就職したのと同時に実家を離れ、しばらく顔を合わせることもなかったので、突然の帰宅に驚いた。


「ねえ、何でお父さん、家に居るの? 今日は平日だよ、仕事でしょ?」

「定年退職……だけど。桃菜は知らなかったか?」

「知らない」


 桃菜はあっさりと返事した。そして、冷蔵庫を開けると、食材を確認し、野菜や缶詰などを見つけては、次々とエコバッグに詰め込んでいった。


「お前こそ、仕事もせずに何してるんだ!」

「へへへ、最近ね、仕事やめたんだ。今は彼氏と一緒に暮らしてるんだけど、彼氏は派遣会社勤めで、稼ぎも不安定で少なくってね。食材確保するのも大変でさ」

「何だと! 仕事辞めたのか? 高い金払って看護系の大学に通わせて、俺の知り合いの口利きで市内有数の総合病院に入れてあげたのに?」

「まあね、お父さんのおかげで大きな病院に入れたけど、正直仕事が辛くてね。お父さんは、病院ならば医者と知り合えて幸せな人生が過ごせるって言ってたけど、医者って癖が強い人ばっかりでさ。何度セクハラやパワハラされたことか。メンタル持たないから、やめちゃった」

「バ、バカか? お前は!」


 叱り飛ばす春男を見て、桃菜は背中を翻しながらせせら笑っていた。


「何が可笑しい? 俺がバカと言ったことがそんなに可笑しいのか?」

「だって、この家じゃ誰もお父さんの相手してくれないでしょ? 兄ちゃんも母さんもおかしくなっちゃったし、弟の劉太郎りゅうたろうは音信不通だし。ま、せいぜい一人で楽しく過ごしてね」


 桃菜はエコバックを手にすると、「バイバーイ」と言いながらそそくさと家を出て行った。


「くそったれが! 二度と帰ってくるな!」


 春男は眉間に皺を寄せて、拳を握りしめた。

 家族は最早、誰も相手にしてくれない。ならば、かつての職場の同僚と、一緒にゴルフや酒でも……と思い、携帯電話をポケットから取り出すと、片っ端から連絡をとった。


「別な仕事を見つけて、忙しいんだ」

「孫が出来てね、その世話で忙しくてさ」

「新しい趣味が出来てね。カルチャーセンターに通い詰めてるんだ」


 結果的に、同僚は誰一人として春男の誘いになびくことは無かった。

 春男は携帯電話をテーブルに叩きつけるように置くと、天井を仰ぎ、大きなため息をついた。


 他には誰か連絡が取れる人間はいないのか?春男はスマホに登録された電話帳を片っ端から確認した。

 その時春男は、「小向劉太郎」の名前に目が留まった。

 春男は、兄や姉のように成績が上がることはなく、ついには大学には行かないとまで言い出した劉太郎に対し、隣の家に響く位大声で捲し立てたことが脳裏によみがえった。春男と何度も大喧嘩を繰り返した挙句、家出同然に家を出て行った末っ子の劉太郎、今は一体、どこで何をして暮らしているのだろうか?

 春男はおそるおそる、劉太郎の電話番号に架電した。


「もしもし、小向ですけど」

「……劉太郎なのか?」

「あれ、ひょっとして親父?」

「そうだ、春男だ。久しぶりだな」

「急にどうしたの? 俺が家を出た時、『もう俺のことなんてどうでもいい』って言い放ってたのに」

「まあ、あの時は、な……」

「何だよ、元気ねえな。いつもの親父じゃないみたいだな」

「俺は昨日、定年退職したんだ。家族は誰も俺を相手にしてくれなくてさ……お前は元気そうだな」

「ああ、俺は今、都内で大道芸人やってるんだ。今度上野公園でやるから、仕事辞めて暇なら見に来ないか?」

「……いいのか?」

「いいよ」


劉太郎の「いいよ」という言葉を聞き、春男の心は揺らめいた。

繋がっていると信じていた家族との絆の糸は、ことごとくほつれていたのに、すでに途切れていたはずの劉太郎との糸は、辛うじて繋がっていた……春男はその糸にすがりつくような思いで、劉太郎と会うことを決意した。


「わかった。じゃあ、行くよ」

「オッケー、待ってるよ。久しぶりに会えるのを楽しみにしてるよ」


劉太郎の電話が切れた時、春男は肩を落としてため息をついた。


天井裏からは、時折匠の叫び声と床を激しく蹴る音が聞こえてきた。妻の成美は一向に春男の元へやってくる気配がなかった。春男は頭を抱えながら、携帯電話の画面に表示されたままの劉太郎の電話番号をじっと見つめていた。

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