果てしなき人生の旅路

Youlife

第1話 円満退職の夜

 深夜の寝静まった横浜市内の私鉄沿線の住宅地。

 小向春男こむかいはるおは、抱えきれないほどの沢山の花束と贈り物を持って、自宅の前でタクシーを降りた。

 春男は今日、大学を卒業以来勤め続けた会社を定年退職した。

 若い頃から必死に働き続け、遠隔地への転勤命令にも文句をいわずに従い、最後には部長職まで昇進することが出来た。

 気が付けば、春男の下には数多くの部下がいて、仕事を通して知り合った数多くの取引先があった。彼らに囲まれて、春男は充実した日々を過ごしていた。

 定年退職の日、春男のために部下たちが大々的に送別会を催してくれた。最後には、顔なじみの銀座のクラブでママ達に門出を祝ってもらった。

 帰りのタクシーの中、春男はご満悦の表情で運転手に語り掛けた。


「いやあ、俺の山あり谷ありのサラリーマン人生は今日無事にゴールしたよ。がんばったなあ、俺。ガハハハハ」

「おめでとうございます」

「あとは家族に囲まれながら、幸せな余生を過ごすとするかな」

「いいですね。家族に囲まれるなんて」

「あれ? 運転手さんは、家族と暮らしてないの?」

「色々事情があって……数年前に妻子と別れまして、今は一人で暮らしています」

「ありゃりゃ、そりゃだめだぞ。家族に愛想つかされるようなヤツじゃ、仕事人としては失格だぞ。今からでも伴侶を探しなさいよ」

「いい人に巡り合えればいいですけどね」

「だったら俺が紹介してやるぞ。会社の若い子とか、何ならいつも俺にお酌してくれてる銀座の子でも良いんだぞ」

「アハハハ、お気持ちだけ受け取っておきます。さ、そろそろですよ。家族の皆さんと楽しい余生を過ごされることをお祈りします」

「ありがとう。君にもいい出会いがあることを祈るよ」


 タクシーを降りた春男は、家のドアを開けた。家族はすでに全員寝てしまったのか、明かりも消えて真っ暗であった。


「おーい!帰ったぞお! 成美なるみ、花束をいっぱいもらったから、どこかに飾っておいておくれよ」


 春男は妻の成美を呼んだが、全く反応が無かった。探そうとしたが、今夜は遅いことだし、飲みすぎて酔いが回っているので、早々に寝ることにした。

 階段を昇ると、長男のたくみの部屋からは爆音に近い音楽と、時折床を激しく叩きながら獣のように喚き散らす声が聞こえてきた。部屋の入口には「勝手に入るな! 入ったら殺す!」と書きなぐられた大きな張り紙が張り出されていた。

 春男は、またいつもの悪い癖が始まったと思い、一切無視して自分の部屋に入った

 。部屋の中には、ワイシャツと脱ぎかけのパジャマが散乱し、雑誌やビール缶、ワイン瓶がテーブルに置きっぱなしになっていた。


「ったく、成美は何やってるんだ! 俺があれほど片付けやっとけって言ったのに」


 そう言うと、春男は床に落ちていたパジャマを拾い、そそくさと着替えると、ベッドに横になった。隣にある匠の部屋からは、「ぶっ殺してやる!」という声とともに、激しい衝突音が何度も起きていた。しかし、送別会でたらふく酒を飲んだからか、春男はまぶたを閉じるとそのまま深い眠りに入ってしまった。

 

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