世界は僕を見ていない

川本 薫

第1話

 さすがに20年経ったら誰も花なんて持ってこないよね? 神様のいたずらなのか、今日6月15日は私の誕生日で両親の命日で結婚記念日でもあった。私が5歳になった誕生日の日、両親にとっては6回目の結婚記念日、その日は幼稚園の遠足で近くの高台にあるお寺に行くことになっていた。母が買ってくれた赤い鈴がついたプリキュアのピンクのリュックの中にはお弁当と『みんなのおやつ』として母が焼いた手作りのクッキーが入っていた。朝、園の送迎バスに乗る前、店の前の道路で『海、行ってらっしゃい。楽しんでね』『海、焦って転けるなよ。ゆっくり焦らずちゃんと前を見て歩いてな』父と母はそう言ってバスに乗った私に手をふった。それが私の中にある最後の両親の記憶だった。幼稚園に着いて朝の挨拶の時間が終わったあと、先生3人と私も含む園児15人で高台にあるお寺まで歩いた。お寺の庭に着いて先生がブルーの大きなレジャーシートを広げて『トイレ行きたい人? 』って先生に聞かれて、手を挙げた私は先生とお寺の裏にあるトイレへと歩いて行った。その途中、ゴォッーという大きな地鳴りがして先生も私も転けそうになった。お寺の本堂からも法事をしていた大人たちの悲鳴が聞こえた。庭からも友達や先生の叫び声が聞こえた。目の前の池の水も揺れていた。鯉がへんな泳ぎ方をしているようにも見えて私は何があったのか怖くなって耳を塞いで座り込んだ。座り込んだ瞬間、先生は私を抱きかかえてお寺の裏庭から何もないさっき歩いていた車道へと走った。しばらくしてお寺の庭に沢山の人が集まってきた。そこに父や母はいなかった。同時に海沿いを消防車と救急車が何台も走っていくのが見えた。『むすびのカフェが土砂で潰されたらしいよ』誰かが先生に伝えたその声が今でも誕生日になると自分のお腹に響いてくる。あの日見たお寺からの町並みと共に。


 20年目の今日もやっぱりそうやってあの頃の記憶が私の目の前にやってきた。祖父も祖母も亡くなって父が生まれ育った家も立ち退きで壊されてしまった。代々続いてきた西田家がもしかしたら私で終わるのかもしれない──。ここで乗り降りする人なんていないはずなのにまだバス停はあった。そろそろ帰ろうか……、バス停に行こうとしたら反対側にバスがとまって男の人が降りてきた。そして、私の方へと道路を渡って歩いてきた。

「もしかして、海さん? 」

 10年ぶりに会う雅(まさ)さんだった。

「家族でもないのにまだ来てくれていたんですか? 」

「いいや、僕も久しぶりにきた。実は亡くなってね、好きだった人が、それでふと思いだして本当に久しぶりにここにきたんだ。しかし、面影はあるけど海さん、綺麗になったね」

「綺麗になったね、なんてそんなの言ってくれるのは雅さんだけです」

 15歳の誕生日の翌日、ここで会ったのが父と母の物語を書いた林雅さんだった。亡くなった母のブログをもとに『むすび』って小説を書いてくれてそれは一冊の本になっていた。15歳の私は初めて会った雅さんに淡い恋のような、懐かしいような思いを感じていた。でもそれから会うこともメールのやり取りをすることもなかった。ただ交換したメールアドレスだけは消さずに残しておいた。

「雅さん、ところで今、一人なんですか? 」

「それってどういう意味? 結婚ならしてないよ。24時間稼働してる物流の仕事してて、僕も彼女も夜勤だったんだ。仕事が終って朝、ラブホでシャワー浴びてセックスして少し話して、そんな関係。彼女、シングルマザーで子供がいたし、僕より年上で多分、僕は甘えてたんだ」

「えっと……、まだ付き合ったことのない私にはちょっと……」

「あっ、ごめん、ごめん。何、話してたんだか、全く僕は駄目だな。変わらず無神経だ」

「でも、その人が亡くなったんですよね」

「ああ、癌でね」

「なんで死ぬのに生まれてくるんだろう。絶対に死ぬのになんで誰かと共に生きようとするんだろ、私には多分、そんな思いがどこか欠けてて……」

「そういえば、今日はマリコさんや相手の男の人は? 」

「今もこの島にいますよ」

「もう一緒じゃないの? 」

「二人の間に男の子が生まれたんです。二人共、今も優しいんです。『私の親代わりだ』って私が何歳になっても言ってくれて。8歳になる翔(しょう)だって、私のこと『海姉ちゃん』って言ってくれてるし。でもそういうのが苦しいって感じはじめて、遅い反抗期みたいな気持ちなんですけど、私も逆に怒れなくて、だから今はたまに顔を見せるぐらいです」

「幸せな悩みなんだね」

「雅さんはもう書いてないんですか? 」

「書いてないよ、ああ全く。生きてくのに精一杯だから。熱がなくなってしまったんだ。夜勤だからそこそこ稼げて、でも人とはサイクルが違うんじゃん? さすがに彼女が亡くなってまた同じ職場の誰かとつき合うのはちょっと……って自分の中で思って今更、結婚とか家庭とかはもういいかな、このままずっと働けて死ねたら、って今は思うから」

「そうですよね、大抵はそんな綺麗事で生きていけませんもんね。雅さん、会えてよかったです」

「帰るの? 」

「はい、船の時間もあるし」

「あれ? もう島にはいないんだ」

「いません。今は市内で一人暮らしです」

「じゃあ、一緒に帰ろうよ」

「えっ? 」

「僕も市内だから」

 ふと父と母に見られているような気がして、もう一度、私は山の方を見て手のひらを合わせた。

 10年前はもう少しキラキラしていただろうか? 私も雅さんも。バス停に二人で並んで立っていると赤い軽自動車が止まった。

「海? 」

「マリコさん!! 」

「あなた、いつの間に彼氏が……」

「マリコさん、違うって雅さんだよ」

「雅さん? 」

「マリコさん、お久しぶりです。久しぶりにここにきたら海さんと偶然会って同じ市内なら一緒に帰ろうかと話してたんです」

「海、もしかして翔に遠慮してる? それとも春也のこと? 」

「マリコさん? 」

 雅さんがなんともいえない顔でマリコさんの方を見ていた。私は何も言い返すことができなかった。春也さんは父の友達だった人だ。そして、マリコさんの旦那さん。私を娘のように今だって二人共思ってくれてる。ただ、春也さんもマリコさんも祖父や祖母と違っていた。ちゃんとしていた。噂に惑わされず、私に『ちゃんと自分で考えて、多数に惑わされないこと。最初の1になることを恐れないこと』それを教えてくれた。まるで母がそうしたかったみたいに。それは私にとってはかっこよすぎて。いつしか推しのそばで暮らしているような気持ちになってマリコさんといるのも春也さんといるのも苦しくなったんだ。特に春也さんに関しては父親に甘えたい気持ちなのか異性に感じる気持ちなのか、自分でも全くわからなくなっていた。

「マリコさん、ごめんなさい。マリコさんといるのも、春也さんといるのも今はしんどくて、いやしんどいというよりも自分が情けなく感じてしまって……」

「海、あなたの気持ちもわからないわけじゃない。でも覚えといてね。ここはあなたにとっては故郷なの。例えもう家族がいなくても」

 そう言うとマリコさんは

「とりあえず、乗って、フェリー乗り場までおくるから」

 後部座席のドアを開けた。

「不思議ですね」

「何が? 」

「全く接点のなかったマリコさんと海さん、そして僕がこうして同じ車に乗ってる。まるで節子さんがあの世から糸を垂らしてるみたいだ」

「雅さん、その表現は変!! まるで母が蜘蛛みたい」

「たしかにその表現はちょっと節ちゃんが可哀想、さあ着いたわ。気をつけてね。海、お盆には顔を見せてよ。翔なんか本当に楽しみにしてるんだから」

「わかった。じゃあ今度、翔になんか買ってくるよ」

「マリコさん、ありがとうございました」

「じゃあね」

 私と雅さんは切符売り場に行って切符を買って14時のフェリーに乗った。

「海さんの両親もこうやって並んで座ってたんだろうね」

「雅さん、ごめんなさい。私はフェリーに乗るといつも父が沙羅さんに言い寄られてる姿が浮かんでくるんです。沙羅さんなんて知りも知らないのに、雅さんの本を読んでからどうしても──」

「ごめん、そうだよね。海さんが大きくなったとき、きっとそのことで多分、傷つけるってわかってた。僕もむしろ、節子さんがなぜ良太さんを許せたのかわからない。自分を捨てて他の女に逃げてその上、自殺未遂までして、なぜ別れなかったのか本当のところわからないんだ。どう考えても」

「私の中にもそんな父のいい加減な血が入っているとしたら、って思うと怖くて。例えばマリコさんを裏切って春也さんと関係を持つとか、言い寄ってくる人を拒めなくなるとか、実際にそういう子を何人も見てたから」

「海さんは完璧に生きたいの? マリコさんや春也さんみたいに」

「そうじゃなくて、誰も傷つけたくない。たくさん言われてきたから傷つく言葉を昔からずっと──」

 あっという間に瀬戸の花嫁が流れてきてフェリーは本土に着いた。

「どうすんの? バス? 」

「私は電車で」

「じゃあ、僕も」

 フェリーから降りて今度は駅まで二人で歩いた。

「なんかさ、何度も思うんだけど不思議だよね。2回目なのに、こうやって違和感なしに歩いてる」

「確かに雅さんには、なんでも話せそうな気がする。逆にそれって恋愛対象じゃないからかも」

「まあね、海さんより10歳上だからね。 しかも僕が付き合ってたのは年上だから、僕としても海さんは妹だな」

「じゃあ、これから、時々、お兄さんとして話を聞いてもらおうかな? 」

「それは駄目だな。僕は夜勤で海ちゃんが帰宅する時間から仕事だから」

「──なんか残念。でも会えてよかったです」

 駅に着くと切符を買って改札を抜けてまたベンチに一緒に座った。

「ごめん、僕は電車に乗ったら少し寝るから着く前に起こしてくれる? 」

「別に構いませよ」

 本当に電車に乗ると雅さんは眠り始めた。もしかしたら、夜勤明け眠らないままに島に来たのだろうか? 彼氏でもない人が私の肩に頭を置いて眠る姿に少しドキッとした。窓から見える工業地帯、潮風で錆びた鉄の匂いが見ただけで鼻に感じる。あの工場の中にも誰にも見られていないたくさんの人の日々が溢れてるんだと思ったら、誰がこの世なんてものを生んで誰が命なんてものを思考なんてものを宿したのだろう。それは私のように自分の中でだけ意味なくグルグルしてるだけかもしれないのに、そんなどうでもいいことを思った。


「雅さん、もうすぐ着きますよ」

 一瞬、電車の揺れがひどくなって私も私の肩にもたれていた雅さんもガタンと揺れた。

「ごめん、なんか本気で寝てた」

「もしかして夜勤明けですか? 」

「そう。まあ今日は休みだから大丈夫。そうだ、多分、海さんは連絡してこないとは思うけど、ラインだけでも交換しとこっか? 」

「そうですね、多分、私からは連絡しないとは思いますけど」

 私はポケットからスマホを取り出してQRコードを画面に表示して、雅さんのスマホの下に差し出した。

 駅に着いて『じゃあ』と雅さんは私に言ったあと、後ろを振り返ることなくエスカレータへと向かう人の波に紛れた。

 ──私、誕生日だったんだ、今日は。雅さんと別れたとたん、お腹が減った。とりあえず家に帰ってからまた出かけよう。私は駅の南口へ出てバスに乗った。島を出たのは14時なのに駅に着いたのは17時だった。6月の17時はまだ昼間のように空が明るかった。

 同じ時間なのに島とは全く違う体感の時間の流れ。

 マンション近くのバス停に降りたとき、どっと疲れが出た。

 無意識のまま、いつものように玄関のドアにキーを差し込んでドアを開けた。開けた瞬間に私はすぐにドアを閉めて近くのコンビニまで全力で走った。

「雅さん、たす、たす、たすけて!! 」

 連絡しないかもしれないと言った雅さんに1時間もしないうちに自分から電話をするとは思ってもみなかった。

「海さん? 海さん? どうした? 」

「誰か、誰かが、私の部屋にいる、いるかもしれ……」

「待って、今どこ? とりあえず海さんは安全な場所から警察に電話して、僕はすぐ行くから、海さんの住所をすぐにラインして」

 私は通話を終えたあと、震える手で自分の住所を雅さんにラインして警察に部屋に誰かが侵入してることを通報した。コンビニの前で警察と雅さんを待つ。一瞬、夢を見てるような気がした。悪い悪い夢を。玄関のドアを開けた瞬間に私の目に飛び込んできたのは靴箱に入っていたヒールやブーツが床に散乱して玄関から見えた部屋の中も床に本や衣類が散乱していた。明らかに誰かが部屋に侵入してる。

『ウーウー』

 パトカーのサイレンの音が聞こえてきたと同時に目の前にタクシーが止まった。雅さんがタクシーから降りてきた。

 警察にマンションの場所を教えたあと、私は雅さんに支えられながらマンションへと歩いた。

「誰かにストーカーとかされてますか? 」

「う──ん、窓ガラスも割られてないし、これはピッキングかスペアキーですね。ベランダの鍵は閉まったままだし」

「君、ちょっとこれ!! 」

 自分がこの部屋にいたらどうなっていたのだろう? そう思うと私に話しかけてくる警察官の言葉が耳に入ってこなかった。雅さんが私の体を支えてくれながら警察官への返事は全て雅さんがしていた。


 ──待ってたのに、どこ行ってんだよ。

 大学ノートを破って書いたテーブルの上に置かれた走り書きを見て

「もうここには住まない方がいい。僕らも見回りはしますけど君のところで彼女を守ってあげた方がいい」

「わかりました。ありがとうございます」

 部屋の外の廊下ではパトカーが止まってることに住民がザワザワとしている声が聞こえていた。

「海さん、とりあえず、大事なものと着替えだけまとめて、ここにいたら駄目だ」

 何を手にとってキャリーケースに詰めたのか記憶になかった。この部屋に誰かが侵入してたんだと思うととたんに吐き気がして雅さんがいてくれるのに外へ逃げたい衝動にかられた。

「大丈夫だから、海さん!! 」

 雅さんが私の手を握ってくる。

「彼氏さん、仕方がないことです。突然ね、誰かが部屋に侵入してきたという現実にぶつかると人は怖くなるんですよ。唯一落ち着けるはずの自分の部屋がね。とにかく今日は一人にしないであげてください」

 荒らされてるだけで特になにかを取られてるわけでもなかった。大事なものは普段から持ち歩いていたし、念のため、クローゼットの引き出しにくっつけていた茶封筒に入れた現金もそのままあった。


「じゃあ、僕らもパトロールはするけど、犯人がわかるまではこの部屋に一人でいてはだめだよ」

 警察が帰ったあと時計を見たら20時過ぎていた。

「嫌かもしれないけど、海さん、とりあえず今日は僕のところへ行こう」

「ごめんなさい、ごめんなさい、巻き込んでしまって」

「それより、誰かに狙われてるんだよね? そっちのほうが僕は心配だ」

 タクシーで5分ほどで着いた雅さんのマンション。部屋に入るとテーブルの上には部屋には似合わないカサブランカの花と散らばったメモ用紙、そして、花瓶の隣に無造作に置かれた女の人の写真があった。

「こんなことになると思ってなかったから散らかしてるのがバレバレだな」

「いえ、全然、思ったより綺麗です」

「さて、ソファーがあるから寝るところはいいとして、とりあえずお腹減らない? 」

「たしかに何も食べてませんよね? 」

「うん、何か作るのもありだけど、疲れたでしょ? とりあえず近くの居酒屋に行こうか? 」

 

 知ってるけど歩いたことのない街並みだった。他にはお客さんがいなかった居酒屋の座敷の席に座ると

「ちょっと待っててすぐに戻るから」

 雅さんは厨房のオーナーらしき人に話しかけて店の外に出た。私はその間にマリコさんに電話した。

「海ちゃん、まだ最終に間に合うでしょ? 迎えに行くからすぐに戻りなさい!! 」

「今日は大丈夫だから、雅さんがいてくれるし」

「その雅さんがわからないでしょ? 」

「わからないのは……私にとってはマリコさんだって春也さんだって一緒!! 」

 私は通話終了ボタンを押していた。

『カラン』

 雅さんが居酒屋のドアを開ける音がした。

「ごめん、じゃあ好きなもの頼んで。とりあえず何飲む? 」

「じゃあビールで」

「大将、生ビ2つ」

「あいよ」

と大将が返事したあと、店員さんが持ってきたのは生ビールではなくホールケーキとカットナイフだった。

「海さん、誕生日おめでとう」

「おめでとうございます。まさか雅ちゃんにこんな彼女がいるなんておばちゃん、嬉しいわよ」

「花さん、やめてくださいよ。いつも一人で飲んでるのがバレるでしょ」

「えっ……なんで? 」

「いや、祝おうと思ってたけど、ほらっ立場的にお兄ちゃんって複雑じゃん? あんま思い出つくりすぎると彼氏ができなくなるだろうし……って一応、遠慮してた。でも、助けてって僕のところに電話してきたんなら、誕生日ぐらい祝っても迷惑じゃないよな? って」

 その言葉に拍手をしたのは、私ではなく花さんという店員さんだった。

「雅さん!! 」

 さっきまでの恐怖が少し和らいだ。私はホールケーキを6等分して店員さんたちにも取り分けた。

「複雑だと思うんだよ。自分の誕生日の日に両親が亡くなるなんてことは。僕には微塵もわからない。だってまだ父も母も生きてるから。だけど本当にお節介だけどちゃんと生まれてきたことは誇らしいことだと思うんだ。こんな僕に言われたくないかもしれないけど、だから、海さん、誕生日おめでとう──」

 島で食べていたショートケーキと違ってスポンジもふわふわで生クリームもざらざらではなかった。何より一口頬張っただけで苺からはちゃんと苺の甘酸っぱい味がした。冷静になってみたら、これから私は雅さんの部屋に帰るんだ、じゃあ、寝顔とかも見られるわけで……、いややめとこう、今、余計なことを考えるのは、そう思ってメニュー表をこれでもか、と上から下まで見た。 

 とんぺき焼きに、刺し身の盛り合わせ、じゃがバター、たこの天ぷら、目についた食べたいものを次から次へとオーダーして食らいつくように口にした。雅さんに呆れられてると思いながら食べることで現実逃避していた。


 居酒屋から出ると

「いや、びっくりしたよ!! 海さん、すんげえ食べるじゃん!! 」

「なんか余計なこと考えそうだったんでとにかく食べることに集中したんです。ごめんなさい」

「いや、いいよ。なんか元気出た。壊れそうな繊細さよりもそっちの方が全然いいよ」

 雅さんも酔っ払っていたんだ。何回も『いいよ』『いいよ』を繰り返して部屋につくとすぐにソファーに横になって鼾が聞こえてきた。

 私はクレンジングシートでとりあえず化粧を落としながら、視界に入ってきた冷蔵庫の扉に貼ってあったメモに書いた『世界は僕を見ていない』その言葉が気になった。

 そして、その言葉が私と雅さんを未来を変えるなんてその時は1ミリたりとも思っていなかった。

 私自身が物語を書き始めるということさえも──。

「あっ、ごめん。酔っ払ってなにかへんなこと言わなかった? 」

「なんにも嫌なことは言われてないですよ。いいよ、いいよだけ言われました。ところで雅さん、あの冷蔵庫に貼ってある言葉って? 」

「ああ、あれはね、僕が今度またどこかで書くことがあればアカウント名にしようと思ってる言葉だよ。厨二病全開だけどさっ。あっ、そうだ、海さん、書いてみなよ。あの名前で思うままに。海さんが蓋をして大事に隠してる気持ちとかあるでしょ? どうせ誰も知らない世界なんだから放ってみたら? 今日の怖がる気持ちだって打ち明けてごらんよ」

 私は6月15日が終わる10分前、はじめて投稿サイトに登録した。何一つ書いたことがないのに、世界なんて見ようとしたこともないのに雅さんの手を借りて

『世界は僕を見ていない』そのアカウント名で。

 静かに始まったんだ。

 私の『はじめての夢中』がその夜に。

 




 





 






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