川本 薫

第1話

 普段はお酒を一切飲まない保(たもつ)が珍しく缶ビールと一尾100円の秋刀魚を買ってきた夜だった。

 「俺が焼くからテレビでも見て待っていて」

と保に言われ私はさっきまで保が腰掛けていた椅子に腰かけた。

 その時、ふと机の上のパソコンの画面を見ると

 ──国道6号線と国道4号線、仙台まで下道で行くにはどっちが近いですか? 

 Yahoo知恵袋のそんな質問の画面が表示されていた。


 秋刀魚のほんのり皮が焦げた香ばしい匂いと大根のみずみずしい匂いが台所から漂ってきたと同時に炊飯器からご飯が炊けた『ピッピッ』と音が聞こえてきた。それだけでは物足りないだろうとあとは焼くだけに下ごしらえしておいたピーマンの肉詰めを冷蔵庫から取り出そうと立ち上がった時、保は

「できた!! 食べよう」 

と私を呼んだ。

「秋刀魚だけで足りる? 」

「今日は秋刀魚だけで食べたい」

「じゃあ、わかった。味噌汁だけあたためるね」

 私は小鍋に入れて冷蔵庫で冷やしておいた玉ねぎと油揚げの味噌汁をあたためて汁椀に注いだ。

 保は秋刀魚をいつも美しく食べる。そのまま骨の標本にできそうなぐらい完璧にして。私は保が食べた後、お皿に残った秋刀魚の骨を見るのが好きだった。


「そうだ、さっきパソコンの画面見たんだけど仙台にでも行くの? 」

「違う。たまたま国道6号線で検索したら知恵袋がヒットして意味もなく見ていたんだよ」

「国道6号線? 」

「実はさ、あんまりというか誰にも言ってなかったんだけど昔、月を追っかけるみたいに東京から仙台の実家へと帰っていった彼女を追っかけたことがあるんだ。彼女がどんな理由で実家に帰ったのかもしらないで、どうしても彼女に会いたくなって前に聞いてた住所を思い出して朝早くに日本橋を出発して国道6号線をひたすら走ったんだよ」

「国道6号線がよくわからないんだけど東京から仙台って飛行機のほうが早くない? 」

「そりゃそうだけどさ、空港からまたレンタカー借りるのも面倒だし、太平洋沿いをとにかくまっすぐ走ってみたいのもあって当時、俺は国道を走ったんだ。ひたすら。仙台に着いたときには日がもう落ちていて、番地表を頼りになんとか彼女の実家にたどり着けたんだ」

「会えたの? 」

「いいや、会えなかった。時遅しで」

 時遅し──それ以上のことは聞かなかったし、保もそれ以上のことは言わなかった。

「秋刀魚ってさ、大根おろしと白飯とシンプルに食べるのが1番だよな」

「だね」

 

 晩御飯のあと、保はベランダの窓を開けて床に灰皿をおいて上着のポケットに入れてぐしゃっとつぶれたセブンスターの箱から煙草を1本取り出した。

「加奈って月を追っかけたことあんの? 」

「月? 追っかけるわけないでしょ」

「俺、さっき話した彼女に会いに仙台まで車を走らせてる時、月を追っかけてるみたいだと思ったんだ」

「日中、走ってたのになんで月? 太陽じゃないの? 」

「月みたいな子だったんだよ。いなくなっても大丈夫だ、って思ってたのに日増しに気持ちが手を伸ばすようになって、去るものを追っかけるなんて馬鹿みたいだと思ってたのに気がつくと車を走らせてた。でもすべてが遅かった」

 ふうっ──保が吐いた煙が窓から外に出てゆく。

「ふぅん、珍しいね。来るものは選んで去ってゆくものには塩をまきそうな保が」

「だろっ? でも今、思えば胸騒ぎだよ。亡くなってたんだ」

「亡くなる? 」

「そっ、子宮の病気だったらしくて俺が仙台に行くまでの数ヶ月の間に亡くなっていたんだ」

「そんなドラマみたいなことってあるの? 」

「あった」


 今、思えばその日は彼女の命日だったのかもしれない。保から髪が長いとか細かったとかなにひとつ彼女のことは『彼女』という言葉でしか語られてないのに私の中にはなぜか『彼女』が浮かんできた。

 保がその話をしたのはその夜だけ。


 そしてそれから保も母親の介護のため、この部屋から出てひとりが横浜へと帰って行った。冷蔵庫の扉には保が自分の実家の住所を書いたメモが貼られたままだった。保が出ていってから煙草の自販機にも目が行かなくなって秋刀魚を買うこともなくなった。一尾100円で買えていた秋刀魚が昨日は近所のスーパーのリニューアルオープンの日でも180円で売られていた。


 ──いなくなっても大丈夫だと思ったのに日増しに気持ちが手を伸ばしてゆく


 私の気持ちは日増しではなかった。3ヶ月どころか3年も過ぎていた。

『3年半ぶりに国道6号線 開通しました』

ちょうど保のことを考えていた夜、つけっぱなしのテレビからニュースキャスターの声が聞こえてきた。

 どんな気持ちで保は帰り道、国道6号線を運転していたのだろうか? ふっとハンドルを握る保が浮かんできた。瀬戸内海と日本海しか知らない私は太平洋沿いの国道6号線の海の匂いがわからなかった。


『ピンポーン ピンポーン』

 冷蔵庫に貼っていたメモをくしゃくしゃにしようとした時だった。夜なのにインターフォンがなった。ドアのスコープから見ると保が立っていた。

 チェーンをかけたまま恐る恐るドアを開けた。

「保? 」

「ただいま」

「帰るとは言わなかったのに? 」

「会いにきてもらうつもりでメモを貼っておいたのに? ってそんな話じゃないんだ。母が亡くなって3回忌も無事に終えたから転勤願いを出した。会社の寮を申し込む前に確かめたかったんだ」


 よくわからなかった。

 くしゃくしゃにしようとしていたメモはテーブルの上に置かれたままで保からは新幹線のちょっと機械的な匂いがしていた。

「ご飯は? 」

「前に食べたいって言ってた崎陽軒の焼売弁当買ってきた」

「崎陽軒? 」

 保はまるで出張から帰ってきたみたいに私に弁当の入った袋を手渡した。そしてトランクの中から部屋着を取り出して着替えたあと、閉めてあったカーテンを開けてベランダの窓を開けた。


「そう言えばね、今日、ニュースで国道6号線、3年半ぶりに開通しましたって言ってた」

「3年半? ちょうど俺がここから出て行った時期と同じじゃん!! 」


 私は月を追っかけなかった。

 それでも月は私を見ていてくれたんだと勝手に解釈して明日は秋刀魚を買おうと思う。例えそれが一尾500円だとしても──。


 

 

 



 

 

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川本 薫 @engawa2023

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