第3話 声

 ざらついた不安と高揚の中で、芳郎よしろうは屋敷に毎晩通い朗読を続けた。

 染みの多い天井の下、あまたの雨が降り、草花は育み、樹木が実を付け、熟れたものが落ちては無にかえるを繰り返した。

 日に焼けたふすまと、傾いた障子に囲まれ朽ちた座敷に、この世のものではない景色が広がる。

 その淡いの風景の中で花を育て、芳郎は女が欲している果実を探した。


 渡された種と同じものを見付けること。それが最初の手掛かりと、熟した実が落ちる瞬間に手で受ける。

 雪が解けるように、さまざまな幻想と同じく種は瞬く間に消えてしまう。

 しかしこの世にいる芳郎の手に落ちると、幻想の中よりも少しだけ無に帰るのが遅く、その中で種の採取をかさねた。


 簡単に見つからないと知っていたのか、女はあまり屋敷を訪れない。珍しく姿を現した晩は、開けた障子から湿ったぬるい土の匂いがした。

 始めて屋敷を訪れた日に、彼女はセツと名のっていた。

 

 今その腕の中から、か細い鳴き声がする。猫を、子猫を見つけ抱えて来たらしい。

「ここ数日またひどく暑かったからな」

 セツの手のひらから、白いものが落ちる。驚くべきことにそれは雪だった。

 初めて目にしたときは驚いたが、芳郎も手で受け本物だと分かった。

 どうやらセツは、自身の力で手のひらから出した雪を、水として飲ませているようだった。

「芳郎、これもお前たちと同じだ。すぐ弱る」

 腕の輪郭の動きから、子猫の毛並みを撫でているのがわかる。 

「そうですかね」

 不満そうな物言いに、呆れたように返す。

「人の老婆が面白い話を聞かせるから、何かと懇意にしていた時期があったが。ばあさまは寒いというだけで死んだ」

 冷えの厳しい日。隙間ばかりの貧弱な住処に、体の弱った老人ならばそれもあるだろう。

「あやかし本来の力は、寒さなど容易に散らしてやれる」

 壁にもたれたセツの、ぼやけた輪郭があった。

「お前たちの短すぎる生を、ただ眺めても仕方ない」

 人は好きだが人は脆い。だからあやかし本来の力をもってはらってやろうと、雪女がつまらなそうに言う。

 芳郎、頼んだぞと軽い調子で続けられた。

 

 その日屋敷を出たところで、木陰に嫌な鳴き声をあげる烏たちが集まっていた。何か地面にあるものをついばむ。よせばいいのに、真横を通り過ぎると視線が動いてしまう。

 死んだ動物が餌になるのは当たり前だ。珍しいことではない。

 けれど、ぼんやりとした視覚が捉えたものはセツが抱いた猫によく似ていた。

 セツは一匹だけ気まぐれに助け、残りは死んだのか。あやかしの考えることなどわからない。

 

 あやかしの役にたって何になるのだろう。

 自身が握っている奇妙な力の可能性と、その影響に迷いが生じる。芳郎はその不安を胸に秘めつつ、朗読を続けた。

 その一方で、特別な力に喜びも感じていた。影が幻想を作る、人が通常は持たない力。そこには優越感があり、力が未知の世界へ導くようだった。

 

 特別な能力があったことの喜びと人でないものに関わる不安の中、芳郎は幻想の花の香りを嗅ぎわけ、ついに女の持っていたものと同じ種を見つけた。

 

 手のひらに残る、半月型の種。

 そうは大きく無い花だったはずだ。白い花だ。熟した果実の匂いを思い出そうとする。

 芳郎は自身の手を鼻に近づけ、その微かな残り香を確かめようとした。

 この、これの種の果実だ。

 目的を果たせそうだと高ぶる気持ちと、しかしと冷静な感情がある。

 あやかしの役に立ち、それでいいのか。

 本来自分は、人である叔父や町の人と同じ側に立つべきではないのか。この力を上手く役立てれば、それも出来るのではないだろうか。

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