逆旅
三鹿ショート
逆旅
気が付くと、私はその旅館の前に立っていた。
夜も遅く、大雨であったために、眼前の旅館に宿泊した方が良いだろうと思いながら、中へと入る。
私を笑顔で迎えた受付の女性に対して、予約をしていないが宿泊することができる部屋は存在するかと問うと、相手は首肯を返した。
鍵を受け取ると、私は部屋へと向かった。
だが、その部屋には存在するはずが無い先客の姿があった。
相部屋とは説明されていなかったために、受付の女性に文句を言おうとしたが、先客が私のことを呼び止めた。
名前を呼ばれたために、驚いて振り返り、改めて先客の顔を目にしたところで、彼女が知り合いだということに気が付いた。
しかし、彼女がこの場所に存在しているはずがない。
何故なら、彼女は既にこの世を去っていたからだ。
***
彼女とは、学生時代に交際をしていた。
特段の問題も無く、恋人としての日々を過ごしていたのだが、別れは突然訪れた。
彼女が、不慮の事故で生命を失ってしまったのである。
その事故から数十年が経過しているにも関わらず、彼女が学生時代の姿のままである理由は、おそらく彼女の時間が、この世を去った際に停止したためなのだろう。
その推測を口にすると、彼女は首肯を返した。
そして、年老いた私を見て、笑みを浮かべた。
私が心を奪われた笑顔であることを思い出すと、自然と涙が流れてきた。
彼女は慌てた様子で私に近付くと、案ずるような声をかけてきた。
問題は無いと告げたが、其処で、私はとある疑問を抱いた。
何故、この世を去ったはずの彼女と再会しているのだろうか。
そもそも、今の私が立っているこの旅館は、どのような存在なのだろうか。
私がその疑問を漏らすと、彼女は同情するような様子を見せながら、
「今のあなたは、生死の境を彷徨っているのです。私と再会したのは、あなたが死者の世界に片足を踏み入れていることが原因なのです」
彼女に告げられたが、そのような事態に至る理由が、私には分からなかった。
私の言葉に、彼女は表情を変えることなく、
「落下してきた鉄骨に巻き込まれたのか、眠っている間に発作か何かを起こしたのか、その理由は不明ですが、自分が気が付かないうちに生命を失うことになってしまうほどの事態に遭遇したのでしょう。ゆえに、記憶が欠落しているのです」
そのような説明をされると、納得してしまう自分が存在していた。
死者たる彼女の言葉ならば、彼女が口にする死に関する内容は正しいのではないかと考えたためである。
「どうすれば、元の世界に戻ることができるのだろうか」
私が訊ねると、彼女は扉を指差した。
「この旅館を出ていけば、戻ることができます。此処は、既にこの世を去った人々と再会することで、死に対する恐怖を和らげるための場所なのです。ですが、戻るためには、数多くの困難を乗り越える必要があります。このような苦しみを味わうならば、この旅館で過ごし続けた方が良かったと思うような困難です。其処までの思いをしてまでも元の世界に戻りたいと言うのならば、私は止めません」
その言葉は、私を惑わせた。
このまま愛していた彼女と共に過ごし続けることも良いが、元の世界ではそれ以上に多くの楽しみが存在している。
愛した人間と自身の快楽のどちらを選ぶべきなのだろうか。
悩む姿を見せた私に対して、彼女は口元を緩めると、
「時間は、幾らでも存在しています。しばらくは現世での日々を忘れて、のんびりと過ごしても良いのではないでしょうか」
私は、彼女の提案を受け入れることにした。
***
彼女以外にも、既にこの世を去った存在と再会することができた。
数年前に自らの意志でこの世を去った友人や、先週に病気が原因で生命活動を終えた父親など、様々な人間と会っては、思い出話をしていた。
懐かしい人々と会話をするうちに、このままでも良いのではないかと考え始めた。
此処では、働く必要も無く、他者と争うこともなく、自分の親しい相手とだけ過ごすことができるのだ。
いわば、理想的な世界ではないか。
元の世界は、快楽も多いが、それ以上に苦痛や困難で満ちている。
それに比べれば、この旅館ほど良い場所は存在していないのだ。
だが、この場所には、今の私が愛している女性が存在していない。
その女性とは未来を迎えることが可能だが、この旅館においては、過去に触れることしかできないのである。
それを思えば、どちらが建設的なのかは、阿呆でも分かることだ。
私は、彼女に対して、この旅館を去るということを伝えた。
彼女は私がそのような言葉を吐くことを予測していたのか、寂しげな笑みを浮かべながら頷いた。
私は受付の女性に部屋の鍵を渡すと、旅館を飛び出した。
その先の道は、彼女の言葉通り、苦難ばかりが待ち受けていた。
しかし、私は愛する女性のために、諦めることはなかった。
やがて、光が見えた。
私は、その光に向かって、猛然と駆けていった。
***
目覚めた私を見て、私が愛している女性は、驚いたような表情を浮かべた。
戻ってきたことを伝えようとしたが、突如として襲いかかってきた激痛によって、言葉を吐くことができなかった。
見れば、私は椅子に縛り付けられ、その肉体は傷だらけだった。
一体何が起こっているのかと問うたところ、女性は笑みを浮かべると、刃物の腹で私の頬を叩きながら、
「どうやら、まだまだ愉しむことができるようですね」
その言葉から、眼前の女性によって自分が傷つけられたのだということに気が付いた。
「何故、このような真似を」
私の問いに、女性は笑みを浮かべたまま、
「愛する人間のあらゆる姿を見たいと思うことは、自然なことでしょう。此処に連れてくる際、意識を奪うために頭部を殴ったのですが、あまりにも目を覚ますことがなかったために、正直に言って、焦っていました。刺激を与えれば目覚めるかと思いましたが、どうやら上手くいったようで、なによりです」
そう告げると、女性は刃物から自動鋸に持ち替えた。
私は、己の選択を後悔した。
逆旅 三鹿ショート @mijikashort
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