最初の死

 芹沢昭彦という男を知る者は少ない。

 彼は主体的に動くことがなく、また聞かれても頑なに本心を告げる事はなかったためである。幸いにも彼は人並みの幸運は持っており、彼のクラスメイトは彼が背景の片隅にあることを許していた。

 もし彼がこの教室の光景の中心に立ったのなら、それは心ない者たちが彼を一つのコンテンツとして一つの季節の間に消費してしまうことを意味する。そうして深い傷を負い、社会的な敗北感を抱いたまま徐々に人格が空中分解していく未来はありふれたものではないが、その未来を辿ることがなかった人間が思う数よりはずっと多かった。そうならなかった事が彼の幸運であると言えた。


 無論、河内恵美子とはなんの接点もなかった。

 彼女を知る者は多い。むしろ、知らない者の方が少ないと言える。無闇矢鱈に明るさを振り撒くタイプではないものの、それなり以上の社交性と教室という狭い社会を生き抜くには十分の処世術を備えていた。

 彼女の幸運は何よりもそのルックスにあった。少なくともアルバイトとして読者モデルで学生生活の小遣いを稼げる程度、具体的には「笑顔がかわちいエミ子ちゃん」──彼女はこのネーミングに対して少なからぬ不満を抱いているが──と認知される程度には売れていた。

 むしろ一般的な女子高生と比べても過密気味なスケジュールに生きている彼女には、一度も同じクラスになったことがない地味な男子生徒を知っているはずもなかった。


 共通点は帰宅部であることと電車通学であることくらいで、それも河内は山手線の内回り、芹沢は外回りからさらに乗り継いで帰宅するためにやはり接点などあるはずもなかった。


 だからこそ、彼女のメッセージアプリにこれまで登録してもいなかった芹沢から呼び出しの連絡があった時、彼女に浮かんだ感想は


「誰?」

「てか、校舎裏かー」


 の二つのみだった。

 彼女は友達に撮影が入ったと嘘をついた。彼女はその日はフリーで、カラオケに誘われていて彼女も乗り気だったが、告白とあっては仕方がなかった。

 彼女にはそれをコンテンツにするような趣味はなく、またすっぽかして逆恨みされるリスクを冒すぐらいなら、多少カラオケに遅れた方がマシだった。彼女にとって、芹沢とはそういう相手だった。


 だからこそ、まさかすっぽかされるのは自分の方だったとは、夢にも考えなかったのである。


 河内が通学路を何事もなかったかのように歩いている芹沢に対して、怒りを露わにして掴みかかったのは、そういう背景によるものだった。


「な、なんです?!」

「とぼけないでよ。イタズラ? なんも笑えないんだけど」

「ど、どういうことですか」


 女に詰められて良いようにされるがままの芹沢の態度は、河内にさらなる怒りを注いだ。

 猛スピードで車が二人の脇を通っていく。この通学路は狭い道路だったが、二つの大きな幹線道路の間を結んでいるために抜け道としてよく知られていた。


「と、とりあえず、あそこで話をしましょう。ここは危ないですから」


 芹沢は少し歩道の幅が広がっている場所を指さす。


「いや、話を逸らすなって。アタシのこと呼び出しといて、なんなのアンタ」


 そんな場当たり的な言動は当然彼女が聞きたいものではなく、彼女はますます怒りを募らせるばかりだった。

 芹沢は内心頭を抱えた。彼には彼女が怒っている理由に皆目検討が付かず、尚も怒りを深める彼女には何をしても無駄なように思えたのである。


 突如として、芹沢は彼女を突き飛ばした。

 芹沢は男子としては小柄な部類で、一方の河内は読者モデルとしても一流のスタイルの持ち主であったため、背丈は僅かばかりに彼女が勝っていた。それでも彼が彼女を突き飛ばすことができたのは、男女としての性差、あるいは単純に不意を突かれる形だったからかもしれない。


 河内は激昂した。


──


 この日の芹沢は不幸という他なかった。

 日直の二人がフケてしまい、困りかねた教師が偶然目に入った彼に代役をさせたのである。

 芹沢はものぐさだったが、それ以上に善良な性分であり、また主体性のなさも手伝ってその仕事を引き受けた。この日は偶然にも二つの教科が提出期限を迎えていたために机に積まれていたノートの山は膨大な量となっていた。

 とはいえ幸運もあった。

 彼がノートに教室を運び終えた時、彼にこの労働を押し付けた教師は青ざめた顔で携帯のニュースサイトを開いていた。曰く、最寄駅の交差点に暴走車が突っ込んだのだと言う。下校時間の最中の悲劇であり、本校の生徒数名が巻き込まれる大惨事であった。

 彼は偶然にもこの惨劇を回避することができていた。あるいはこの労働を課されていなかったのなら、この暴走者に巻き込まれるのは、あるいは彼の可能性もあった。


 彼はなんとなく実感の湧かない感覚でふらふらと帰路へとついた。そして、彼が一方的にしか知らないはずの女子生徒が掴みかかってきたのは、そうした背景の中で起きたことだった。

 彼の最大の不幸は、これまでコンテンツにならずに済んでいた幸運は、昨日までの話であったことだった。心ない何者かが、今時珍しい携帯電話を持たない男子高校生に成り済まして河内を呼び出したことである。


 全くもって不幸という他なかった。まるで運命がねじ曲げられたかのように、不幸は連鎖したのである。


──


 河内は激昂し、文句を言おうとした。

 それは叶わなかった。彼女の口から怒号が繰り出されるより早く、尻餅をついた彼女の頭上を何かが猛烈な速度で通り過ぎていき、次の瞬間、轟音と共に目の前から芹沢が消失したのである。


 彼を襲ったのは三つの不幸だった。

 一つ目の不幸は、彼が謂れのないトラブルに巻き込まれてしまったこと。

 二つ目の不幸は、通りがかったトラックが整備の不足と過積載により脱輪を起こし、運悪く彼らはその軌道に留まったこと。

 三つ目の不幸は、彼が人並み外れた、それこそ破滅的とすら言える善性の心を持っていたことである。


 彼はタイヤが外れるのを見た瞬間、迷わず彼女を突き飛ばしてその軌道から外したのである。轟音は脱輪したタイヤが彼の体を軽々と跳ね飛ばした音だった。


 こうして、不幸な一人の少年は人生を終えた。

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