小アルビオン防衛5
「命中を確認。アドラー二騎撃破」
二騎の小型鉄騎を撃破した鉄騎の胸の中で、一人の男が呟いた。
「相変わらず上手いな」
「まあ確かに、人を殺す技術が上手くなったところで、という話ではあるけれど」
男は独り言を言っているはずだった。しかしながら、コクピットに座るのは彼のみだ。顔つきは若く少年兵といっても過言ではなかった。十代半ばといったところだろうか。
彼の名はジョルジュ・ルフェーヴル。その騎体に施された識別マークは神聖アルビオン帝国を示している。肩の階級章は一等兵であることを示していた。
しかしながら、厳密に言えば彼の所属はアルビオン陸軍ではなかった。その証拠に、彼の刈る騎体はアルビオン陸軍主力軽鉄騎のリヴェンジとはやや風貌が異なっていた。
リヴェンジが軽歩兵であるならば、その騎体はかつて中世にて猛威を振るった重装歩兵のようであった。肩幅は広く、また胸部ユニットは全周を装甲で覆っているためより一層無骨な印象を与える。この場では判然とはしないが、リヴェンジと比較して身長は一メートルほど低い。しかし一番に目を引くのは、重装歩兵が組んだ方陣から伸びるランスを想起させる主砲だった。
通常、こういった主砲は左腕より懸架されるのが常識であったが、本砲は人体で言うところの前腕部をガッチリと飲み込んでいた。おまけに二の腕から外付けの油圧式のシリンダーが伸び、それが主砲の重心点の側面をガッチリとホールドしていた。
先程、長距離から二騎のアドラーの騎体を魔力防壁もろとも粉砕した砲撃は、この主砲より放たれたものだった。実にその主砲口径は十九・四センチ、約七・六インチにもなる。
砲弾重量は実に八十・九キログラムにも達し、軽鉄騎の主砲がようやく六インチに移行しつつある昨今の情勢において規格外の巨砲である。
「残弾は……二発か。魔力剣も使い切ったし、接敵したらコイツは捨てるしかないかも」
鉄騎が金属のくぐもった音を立てながら身じろぎする。やがて左腕の主砲を支える油圧シリンダーが収縮し、巨砲が持ち上がる。
そして急場を凌ぐ砲座として、地面に突き刺していた盾を取れば、いよいよ歩く要塞としての威容を放ち始めた。
「何って……ちょっと確認したいことがあってね」
ジョルジュはブツブツと繰り返す独り言を勝手に終えると、ゆっくりと戦場跡へ向けて歩み始めた。
そこへ陽光がゆっくりと差し始め、騎体の肩に塗装された国籍識別用の塗装に、さらに小さく花の意匠が施されていた。
リリス共和国の中でも最も歴史と権威のある意匠である。
現在リリス共和国は首都をフィッチュという温泉街へ移転しているが、それとは別にアルビオンや本土南方に広がる地裂海を挟んで対岸にある暗黒大陸の植民地へと逃れた者たちがいる。彼らは自由リリスを自称し、フェルクス連邦に対して今なお徹底抗戦を唱えていた。
ジョルジュはその一員である。その歩く要塞のような威容を誇る鉄騎はマドブール防衛戦以来の相棒であった。
鉄騎は牛歩とも言うべき歩みで街へ向かう。鉄騎が歩く度に、戦闘に巻き込まれずに済んだ葡萄の葉から朝露が落ちていく。
「本当に、戦争ってなんなんだろうね」
たわわに実る葡萄と、その奥にある倒壊したまま放置された家屋を見ながら、男は無味乾燥の声音で呟いた。
「戦いで大勢の人が死んで、生活がグチャグチャになって」
鉄騎の脚が空中で止まる。そしてそれまでとは違って大きく脚を踏み出し、何かを跨ぐようにして脚を踏み出すと、それ以降はまた同じように歩み始めた。
「知らない場所で、グチャグチャに吹き飛ばされて、誰にも知られないままに朽ちていく。そんな死に方をしていい人なんて、ほとんどいないはずなのにさ」
土を踏み固めただけの街道には、巨人の足跡が延々と続く。規則正しい歩幅で進むソレは一点のみの乱れがあった。
本来ならば足跡が刻まれているはずの場所が半歩ほど前にズレている。先程、男の鉄騎が跨いだ場所だった。
そこには、巨人の足跡の代わりに泥と血で塗り固められた兵士の死体があった。顔も最早判別できず、軍服より除く手や足には早くもウジが湧いていた
「本当は弔ってやらないといけないんだろうけど。もう忘れよう。どうせこれからもずっと見る光景なんだから。弔ってる余裕はないし、覚えれば覚える分だけ、私たちの心が消耗するだけだ」
そこからは、ジョルジュは独り言をやめて無言で脚を進めた。陽は高くなり、朝焼けも西の空にわずかに残るほどになっていた。
本来ならば農家は既に始業を迎えているはずだったが、この使い古された街道を歩くのはこの鉄騎以外にはいなかった。
ジョルジュは広場の入り口に立った。小さな家屋が五、六戸、点々とあるばかりだった。最もあちこちには家屋があったであろう、剥き出しの基礎や瓦礫などが残されており、それを含めれば中々の規模だった。
だが
「……!」
ジョルジュは何かに気づくと広場の中央へと駆け出した。先程の先頭で撃破された鉄騎の残骸を避けながら駆けていくと、そこには黒い塊があった。
「まだ息が」
そう言うとジョルジュは鉄騎を跪かせ、そしてコクピットを飛び出した。
「ナーオ」
その後ろから猫も飛び出し、彼の半歩後を歩いてはその裾に爪を突き立てる。
「離れて。危ないから」
どうやらこの男の大きな独り言は、この小さな相棒に向けて放たれているらしかった。
だが猫にそのような言葉が通じるはずもなく、健気にも小さな相棒は爪を突き立て続けていた。
やがてその健気さが報われたのか、ジョルジュの足は徐々に勢いを失う。
「……ダメ、だね。生きてるけど、まだ生きてるだけだ」
ジョルジュの足から勢いを奪ったのは、小さな相棒の健気さではなく、戦場という特殊な環境において、普遍的に見られる小さな絶望だった。
黒い毛で覆われた小山から、血液の運河ができていた。
猫の背がもこりと隆起する。
その上から、ジョルジュの手が伸びて猫を制した。
「もう、戦いは終わったんだ。そんなに憎んでやる必要は」
ずぶり、と嫌に肉感の強い音がした。ジョルジュの足が地面を離れて、ぷらぷらと力なく垂れ下がる。
「かはっ……」
ぱたたと地面を跳ねた血液は、粘りけによって球形を維持しながら重力に沿って坂を降り、黒い小山から流れる流血の大河の中へと消えていく。
意識を取り戻した強化人狼の貫手が、容易くジョルジュの体を貫いたのである。
人狼、ヴォルフは敵意を剥き出しにしたまま、低く唸る。戦場に遍在する感情が、また一つ命を奪ったのである。
ヴォルフは、朦朧とした意識の中で、これまで奪ってきた命を振り返った。
(恐怖、敵意、それから憎悪か)
走馬灯のように駆け巡る光景は、いずれも「敵」ばかりであった。
「神、さま……」
人狼はそれだけを呟いた。
(私の人生は、あまりにも血に塗れ過ぎている。最早逃げも隠れもせずに、地獄へ落ちましょう。しかし……)
「う゛っ?」
ジョルジュを貫いた右手の爪が徐々に広げられていく。
(しかし神さま。我々を、私をこの地獄へ追いやった人々が安寧の中に眠るのは我慢がなりません。この細やかな願いくらいは、叶えてくれたっていいでしょう、神さま……!)
「ぐぅ……ぁぁあああああっ!」
ジョルジュの悲鳴が響き渡る。
まるで、願いのための贄だとでも言わんばかりに、ヴォルフは手の中のジョルジュを痛めつけた。血が滝のように溢れ、腑がまろび出る。
玉のような脂汗がジョルジュの頬を伝っては、新たに生じた血液の大河をほんの数滴薄めるばかりだった。
(罪深き者どもに神罰あれ、安穏に眠るものに災禍あれ、全ての人類に)
「……ブール」
僅かばかり、聴力を残していたヴォルフの耳が異音を拾った。血生臭い息遣いから繰り出される、異様なまでに安穏な口調の言葉を拾ったのである。
「……を、た事が……」
人狼の顔に明確に困惑の表情が表れる。
拙いアレマン語だった。血生臭い呼気の中で、途切れ途切れに紡がれるそれは、明らかにヴォルフに投げかけられたものだった。
「なんだって?」
ジョルジュは苦痛に顔を歪ませながらも笑みを浮かべた。
「シェンブール」
ヴォルフはしばらく逡巡してから、彼がシェーンブルクのことを指していることに思い至った。シャンブールとは、リリス共和国の東端に位置する港町のことであり、アレマン語ではその街をシェーンブルクと呼んでいたのである。
「ああ、俺はシェンブールにいた」
それは、戦いが終わったことを意味していた。
そこにいたのは、強化人狼と鉄騎乗りではなく、二人の男があるだけだった。既に両者は致命傷を負っていた。未だ戦争は終わらないが、この二人の戦いは終わったのである。
彼らの会話は次第に小さく、風の中へと消えていく。
東の地平線から真っ赤な太陽が顔を覗かせた時、二人の男は既に死んでいた。どしゃりと、ヴォルフの爪に貫かれていたことで保持されていたジョルジュの死体が音を立てて地面に崩れた。
「ナオ」
猫が鳴いた。ジョルジュの連れていた、あの猫である。
猫は健気にもジョルジュの元へ駆け寄って、カリカリとその手を引っ掻いた。東から指す陽の光に照らされて、薄汚れた白い毛並みが陽光を反射する。
主人の返事はない。あるはずがなかった。
人狼の全高は十メートル、鉄騎のそれより少し低い程度、更に言えば彼らの両腕は高い科学力で世界を席巻するフェルクス連邦の遺伝子工学の恩恵を最大限受けていた。物を握るのには不利なほどに長く、強靭に発達した五指とその先からはその巨体に見合うサイズの鉤爪が生えていた。ジョルジュの腹部を貫いた爪である。
長さは付け根から先端までを直線距離で結べば五十センチほど、屈曲していることから実質的な長さはそれ以上である。形状も人間のような物を保持するのに適した扁平なあの爪ではなく、円錐状に伸びており、最も分厚い部分は十センチはあろうかと思われた。
そんな凶器にジョルジュの体は二箇所も貫かれていた。あるいはここが戦場の前線で、野戦病院が近くにあったなら、彼は命を取り留め、それどころか兵士として戦うのに不適と判断されて後方へ転換、ないしは傷病除隊すらも見込めただろう。
だが病院はおろか軍医すらない僻地では、意味のない仮定に過ぎない。第一、死ぬ前のジョルジュは、自分がそんな妄言が許されるような身分ではないことを痛いほどに理解していた。
ジョルジュの体からは未だに血が流れ続けているが、それは心臓が動きを止めて、破れた血管や内臓から流れ出るほどの血圧を失って止まるまでの話であり、人間の死はそれよりもずっと早い段階に位置していた。
猫の行動は全くもって無意味である。
そう、それは猫自身が大きく理解していた。彼女は言葉を使えないが、言葉を使える人間と同じくらい賢かった。そして次に起こる現象も、彼女はよく知っていた。
出血が止まる。
そして、ヴォルフとジョルジュの血で満たされた地の池がボコボコと、まるで沸騰するかのように沸き立ち始める。
血の川が一筋伸びていく。奇妙なことにそれは重力とは反対側の、即ちジョルジュの方へと伸びていく。まるで血液が自ら意思を持ったかのようだった。それだけに止まらない、重力に逆らう血の川は、幾筋も伸びてジョルジュの体へ伸びていく。
気づけば血液がジョルジュの体にたかっていた。傷という傷へ血液は殺到する。ピクリと指が動いた。見開かれて固まったままだった目がぎょろぎょろと動き出す。まるで神が人間を創造するかのような光景を、猫は黙って見ていた。
ゴホゴホ、とジョルジュは二度強く咳き込んだ。そして口の中に入った泥をその場に吐き捨てる。彼がすっくと立ち上がった時、貫かれていた傷口は完全に塞がり、服に開けられた二箇所の穴からは、温かみのある肌色が覗いていた。
(アンタ、またアタシを置いて行こうとしたね)
「アレは違う。僕も死ぬつもりはなかった」
ジョルジュは起きがけに猫と会話をしていた。
それは幻聴である。空気の振動を伴わない、ジョルジュ当人以外に聞き取ることのできない声に対して、人類は幻聴以外の言葉を持ち合わせていなかった。
(また向こうの言葉になってる。アタシその言葉分かんないんだから)
ただ、普通の幻聴と異なるところもあった。
その幻聴は、猫の言葉であった。彼は猫と会話をすることができるのである。
「ごめん」
(いいよ。別に怒ってるわけじゃないし)
『怒ってるだろ』
(また向こうの言葉になってる)
だがその幻聴は猫に聞こえる事はない。結果的に、ジョルジュは猫に対して言葉を使う事でコミュニケーションを取っている。
(で、何の話をしてたの)
「あの人、シェンブールにいた人でさ、恩人なんだ」
(ふーん)
猫はあからさまに興味を失ったように、鉄騎に向けて歩き出していた。
「ごめん」
(何が)
「まだ当分、人間に戻れるアテは見えそうにない」
(別に。アンタが謝る必要ないじゃん。アンタが悪いわけじゃないし。誰もこの現象に説明なんてできないんだから仕方ないじゃない)
ジョルジュは全ての猫の言葉を聞ける訳ではなかった。
ジョルジュがその声を拾うことができるのは、かつて人間だった、目の前の猫だけである。
(それにきっと、元の世界に帰ったら、私は人間に戻れるはずなんだし。そっちは宛があるんでしょ)
宛てはある、とジョルジュは素直に答える事はできなかった。彼女が元の世界に戻ったところで猫に戻っている保証はない。彼は隠し事のできない男だった。
(ちょっと)
「……」
(……ねえ)
「あっ」
(黙らないでよ。不安になるじゃない)
猫の声はいつでも聞ける訳ではなかった。その声は距離の分だけ、猫の気持ちの強さに応じて伝わる距離が変わる。また、逡巡に耽ると、日常では聞こえるほどの声もほとんど伝わらなくなる。
(で、私が日本に帰れる宛はあるの)
「うん、ある」
(それならさっさと答えなさいよね)
猫はそれだけ言うと、身体能力の高さを生かしてあっという間にパトリエ鉄騎のコクピットまでっていった。
「本当に、俺は河内さんを元に戻せるのかな」
ジョルジュは、ジョルジュ・ルフェーヴルを名乗るこの男は、日本語で小さく呟いた。
(芹沢、早くしなさいよ)
「分かってるよ」
猫はこの男の本当の名で呼んだ。
芹沢昭彦、異世界に召喚されてから五年、もしもこの世界と地球の時の流れが同じならば、二一歳になる青年だった。
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