「面白いね」


 俺の如何わしい視線の行方には気付かなかったらしい。彼女の“褒め言葉”を素直に受け取った人間らしい心の動きを動作に落とし込んだ結果、恐縮ですと後頭部に手をやり、頭を自ら前後に揺らす。古いドラマの記号的な振る舞いにも彼女は喜び、目尻が垂れ落ちる。何度も自傷行為に及び、運行を重視する電車の速度を借りた捨て身の特攻が、嘘だったかのような朗らかさを見せられ、釈然としない気持ちになった。“臭い”はハッキリと鼻を刺激し続けており、何故にあっけらかんと出来るのか不思議で仕方なかった。


「あっ、ちゃんと自己紹介をしてませんでしたね」


 人間関係を築くのに寄る方となる、正式な自己紹介を経ずにここまで来たことを彼女の発言により気付かされた。俺は直ちに、


「わたしの名前は、江西智美です」


「真田和樹です」


 丸テーブルに自分の顔が映り込むほど、頭を深く下げた。それはまるで、作劇上でしか見聞きしたことがないお見合いを想起させ、喫茶店の一角でおままごとに興じる恭しさが浮き彫りになった。丸テーブルの上で交わるお互いの影は、口で語るより多くのことを期待させる。成り行きに任せた道中で色気づく俺の口角は、下卑た角度を形作り、それを窘めるまで時間を多く要した。恐らく、営業職でもない限り、このように長く頭を下げることはままないだろう。


 俺は頭を上げる前に息を吸い直し、人に見せても恥ずかしくない表情を作った。釣り糸が沈み込んだかのように、俺は一気呵成に頭を上げると、ほぼ同時に彼女もまた頭を上げていた。「赤い糸」などと、それらしく言葉を装飾して都合の良いように解釈する、地球上で“言語”を獲得した人間ならではの浪漫は、遺伝子情報によって説明が付く。しかし何故だろう。今だけは、「赤い糸」を意識せざるを得ない。仲睦まじく互いの苦笑を拝んだ為か、相手に対して少なからず心を許しているような気がした。俺は少しだけ口を開く。自分のことだと言うのに、何を言い出そうとしていたのか解らない。ただひたすら、彼女とコミュニケーションを取らなければと強迫観念に駆られて口を開いたのだ。


「……」


 暗雲が直上に見え始めた直後、お盆の上にパフェを乗せた店員の登場した。すると、


「ちょっと、お手入れ行ってきますね」


 彼女はパフェを差し置き、生理現象を先に片付ける為にトイレへ走っていく。


「江西、智美……えにし」


 喉に小骨が引っ掛かっているかのような不快感に襲われた。そこはかとない曖昧模糊とした感覚が頭の中に充満し、俺は上げたばかりの頭を抱え込んだ。“臭い”と紐付いて幾つも折り重なった記憶を闇雲に掘り起こしてみる。

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