第3話
長野県立科市。
たてしな、というと高地の観光地で有名な「蓼科」という漢字を思い浮かべる人がほとんどだが、正式な名称は「立科」だ。白樺湖や車山高原で有名なのは高地エリア、僕の実家があるのは山道を下った里山エリアだ。温度差は十度近く高いこともある。のどかな里山には観光客が訪れることは殆どないが、江戸時代から続く酒屋が並ぶ宿場町や、山間にひっそりと佇む寺や神社はなかなかの見ごたえがある。
早朝六時。車通りは相変わらず少なかった。現代風の建築の住宅と、趣のある昔ながらの古民家が混在しているが、殆どの家が黒光りの瓦屋根に統一されているか、風景は統一されて美しかった。
この時間でも、いや、昼間は暑いこの時間だからこそ、自宅周辺で畑作業や庭の手入れをしている人は多い。それぞれが作業に没頭しているせいか、幸い僕が歩いているのを気に掛ける住民はいなかった。
しばらく帰省するつもりなので、なぜ僕の様な若い男性が朝から毎日散歩をしているのか、不思議に思われるのも時間の問題だろう。
「さてと。。。。空見叔父さんの家の様子でも見に行くかな。」
空見叔父さんの住んでいた大きな畑付き古民家は、山間に囲まれた集落の真ん中に有る。右手には江戸時代に建てられたとかいう古い古社を臨み、その背後に長野アルプスが見渡せるなかなかの立地条件だ。
実家から徒歩十五分程度とはいえ、この場所を訪れるのは十年ぶり以上だった気がする。
主が居なくなった民家の入口には背の高い雑草が伸び放題で、訪れる人の侵入を拒むようだったが、僕の冒険心は一層搔き立てられる。そのまま中へと進むと、懐かしい中庭に出た。程よい広さの広場で、なぜかここは程よく手入れがされていた。黄色やオレンジ色の鮮やかな季節の花々が庭に彩を与えている。
右手には朽ちかけた土壁の納屋が有った。叔父がホームに入居してから二年近く経つので廃墟同然かと思ったが、不思議と所々が崩れ落ちつつも小奇麗に保たれている。入口こそ雑草が伸び放題だったが、なぜか敷地の中は誰かが定期的に手入れでもしているのだろうか、と思うほど、人の気配を感じさせた。
「。。。すげぇ。。。いい感じ。」
大正時代頃に建築されたという、瓦屋根の二階建ての日本家屋を見上げた。木製の雨戸は全てしまっている。もしかして玄関の鍵は開いているかな、と引き戸に手をかけてみるが、さすがに締まっていた。
「。。あの。。。こんにちは。。。」
透き通る様な女性の声がして、はっと息を呑んで驚いて振り返った。
納屋の前に、一人の少女が呆然と立ち尽くしている。
ツバの大きな麦わら帽子をかぶっているので顔がよく見えない。黒いズボンに黒い長靴、
右手には草刈り用のカマを握りしめている。
「あ、どうも。。。」
なんだか自分が悪いことでもしている様な気がしておどおどしながら、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。」
「ここのお家の方ですか?」
「あ、いえ。。。あの。。僕、十条と申します。」
「あっ、十条さん。。。確かここの土地のご親戚の?」
彼女が帽子をさっと取る。
あ。。。。。。
思わずはっと息を呑んでしまった。
外国人だろうか?
栗色ぱっちりとした瞳に、同じ色の柔らかい髪が滝の様に肩に流れている。指で触れたら、その内側に吸い込まれてしまいそうな美しい白い肌の頬は、暑さのせいだろうか、鮮やかなピンク色だ。額には汗の玉が無数に浮かんでいた。
「はい。十条結太郎です。いま少し実家に帰省していて。」
女の子はゆっくり数歩、僕の方へ歩いてきた。
「そうだったんですね。初めてお見掛けするので。」
「そっか。。。。えっと。。。きみは。。。」
僕は照れくさくなり頭をぽりぽりとかきながら数歩アーリアの方に近づいた。
「あ、ごめんなさい。アーリアです。アーリア・ワトソン。イギリスから来ています。母が日本人で。」
軍手に草刈りカマを握りしめたアーリアが、ぺこりと小さく頭を下げる。背景に見える木造と石造りの納屋が、西洋の顔立ちをした彼女と柔らかくブレンドしている。
アーリアが庭の中央に置かれた木の椅子にちょこんと腰をかけた。
「疲れました。ちょっと休憩。」
白い小粒ぞろいの歯を見せて笑うと、水筒を手に取った。椅子をガタガタと移動させて納屋の日陰に入る箇所まで移動させると、水筒の中身を全部飲み干す勢いでぐいぐい飲んでいる。
「この近くに住んでいるの?」
「はい、夏だけですけど。秋から長野市内の会社で働く予定で。。。今は国道の先のコテージ知ってますか?あそこでアルバイトしながら日本に慣れようかと思っています。」
「向こうに住んでいる時間の方が長いんだ。」
「はい。小さい頃と小学生の頃二年だけ日本に居ました。」
アーリアは額に浮かんだ汗を首にかけたタオルで拭うと、ふぅと一度深い息を吐いた。
「。。。で。。ここの草刈りをしていくれているの?これから一日アルバイトなのに。」
「ええ。。でも。。動いている方が落ち着くので。空見さんの息子さんがコテージオーナーですよね。この家の整備を頼まれて、たまにですけど来ているんです。」
僕は思わず目を細めた。空見叔父さんの息子は自分よりも少し年上の穏やかな男性だ。コテージのアルバイトの子に、父親の家の整備など頼むのだろか。明らかに怪訝な顔をしたつもりは無かったが、アーリアは微妙な表情に気づいたのか、くすりと笑って肩をすぼめる。
「ここの景色が見たくて。。。手が回らない話を聞いていたので、自分からやりたい、って言いました。素晴らしい眺めでしょう。南アルプスに、点在する瓦屋根の古い家屋。本当に素敵なところです。」
「スーパーもコンビニも遠いからね。住むには不便だけど。確かに眺めはいいね。」
アーリアは、その後もいかにこの敷地の手入れを楽しんでいるか、という話を複雑な色にか輝く目でほがらかに語ってくれた。
デイホームに居る空見叔父さんが聞いたらさぞかし喜ぶだろう、と思った。こうして可愛いらしい女の子が自分の日本家屋の庭を愛し、綺麗に保ってくれているのだ。
「あ、まずい。こんな時間だ。仕事始めないと。」
アーリアは汚れた軍手のままスマホをつかむと、僕を見て肩をすぼめた。
「これから出勤なんだ。」
「はい。シフト制なんですけどね。今日は早いんです。」そう言うと、大きなほうきを掴み、散らかっていた草を集めだした。
「いいよ、残りは僕がやっておく。ありがとうね、庭の手入れしてくれて。」
僕が右手を出すと、アーリアは少し躊躇したような顔を見せたが、こくん、と頷いてほうきを渡した。
「すみません。。。じゃあ、お言葉に甘えて。十条さんは、時々来ますか、ここ?」
―来るだろうか? いや、きっと来るだろう。またこの子と話がしてみたい。
「そうだね、時間が有れば時々寄ってみようと思う。」
嬉しそうな間抜けな顔をしてないか心配しながら返事をすると、アーリアはにっこりと頷き、また大きな帽子をすっぽりと頭からかぶった。まるで映画に出てくるワンシーンの様だ。
「それじゃあ。また、会いましょう。ご家族の方に宜しくお伝えくださいね。」
「はい。ありがとう。気を付けてね。」
アーリアは自分の日本語は第二外国語だというが、僕には日本人が話すそれより遥かに美しく聞こえた。おそらく五分足らずの会話だっただろうが、ほんわりとした温かい雰囲気を持つ彼女との会話で、僕の心がぽかぽかと温まってきた。
行ってらっしゃい、と、軽く右手を上げると、アーリアは小学生の様に手をぶんぶんと振りながら、畑に繋がるあぜ道に繰り出していった。
弾むような元気な後ろ姿から、なかなか目を離すことが出来なかった。
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