第3話 アーリア

二階の角部屋の開け放した窓から強い光が差し込み、結城の頬をじりじり焼いている。

「あつい。。。。。」

 思わず目をしかめて、砂壁に掛けられた古時計を見た。

「六時前か。。。。。」

 仰けのまましばらく木張りの天井を眺める。ところどころ、黒いシミが有る。雨漏りしているのだろうか? この家が建てられたのは戦前、昭和初期だと聞いた。その後は何度か改装を重ねながら、祖父や両親は愛着を持って住んでいる。


 布団を剥いで、思い切って起き上がった。頭がすっきりしている。そういえば、久しぶりにぐっすり寝られたのだ。恐る恐る起き上がるが、毎朝感じていた何とも表現しがたい胸の重たさも無く、身体が軽い。

 こうして場所を変える、ということは正解だったのかもしれない。


 スーツケースに適当に放り込まれて皺のついたTシャツに着替えて、ジーンズをはいた。ここまで早朝からテキパキ動いたのは記憶にないほど久しぶりだ。

 キシキシと不安になる音を立てながら階段を下りると、野菜が茹でられる香りが鼻をくすぐった。こんな早朝だと言うのに、母はしっかりと普段着に着替えて花柄のエプロンを巻き、忙しそうに狭い台所を行き来しながら朝食の準備をしている。

「おはよ。」声をかけると、母はピタリと動作を止める。

「あー。。。びっくりした。結城か。どしたの、あんた。こんなに朝早く。」おたまから、ポタポタと味噌汁の汁が垂れて床を汚している。それほどまでに、僕が早起きすることは想定外の様だ。父も母も、送迎だけしてくれた樹も、会社の事は一言も聞かなかった。いつも通り明るく迎えてくれて、こんなボロボロになるまでスニーカー履いて、と小言も言ってくれた。


「なんか目が覚めちゃったんだよ。もう朝飯出来ている?」

「まだ出来て無いよ。もうちょっとかかるから。縁側でゴロゴロしていて。」

 母は一体何時に起きるのだろうか?ひとまず洗面所に行き、ぼさぼさの髪の毛を整える。歯もいつもの倍の時間をかけて磨いた。鏡に映る自分の顔は、やはり疲れの色濃く残っている。

 見ていて憂鬱になったが、首を振って、照明の角度が悪いからに違いない、と深呼吸をする。

「ねぇ、ちょっと朝飯前に散歩でも行ってくるね。」

 台所に戻り、冷蔵庫の中を見回してトマトジュールの缶をつかむ。

「。。。散歩。。。。?」

 母の動きがもう一度止まった。

「。。。うん。。。ここ1カ月くらい始めてるんだ。。少し調子がよくなるから。」

 母の目は見ずに言った。昨日の食卓でも、誰一人で僕の会社のことや、今の状態について口にする家族は居なかった。感謝する半面、少し誰かと気持ちを共有したかった気もするので胸にはモヤモヤが残った。

「そう。」母は間を置いてからやっと発声する。「散歩はいいよ。今の季節は最高に気持ちがいいよ。ゆっくり言っておいで。ついでに空見叔父さんのとこの古民家と農園でも覗いてきてもいいしね。」

 母も、僕の目は見ずにそう言った。

 悪くないかもしれない。

 今日は、なぜか、そんな風に思えた。



 建付けの悪くなった玄関の引き戸をこじ開けて、よく手入がされた庭に出た。まだ朝の六時だというのに、日差しが強く思わず目を顰めたが、空気は柔らかく、頬を撫でる風は草と土の匂いがする。目黒区の自宅周辺のそれとは、まったく別の物質で構成されているのでは無いか、という気さえしていた。


 山間部の季節が変わるのは早い。急こう配の坂の上から眺める集落には確実に秋が舞い降りていた。朱色、黄色、濃い緑。見渡す限り、色とりどりの木々を見ていると、何とも言えない充足感が僕の身体と脳が満たしていく。

 一度、玄関に戻って薄手のパーカーを羽織ると、結城は美味しい空気を胸いっぱいに吸い込み、東京に居た時よりも何倍も軽く感じるスニーカーで庭の土を踏みしめた。


 石垣で押し固められた急こう配の坂を下り、曲がりくねる人幅ほどの細い道を進む。空見叔父さんの住んでいた古民家と、そこから5分ほど離れた場所に有る貸農園は、山間に囲まれた集落のど真ん中に有る。右手には江戸時代に建てられたとかいう古い古社を臨み、その背後に長野アルプスが見渡せるなかなかの立地条件だ。

 

 実家から徒歩15分程度とはいえ、この場所を訪れるのは10年ぶり以上だった気がする。

 主が居なくなった民家の入口には背の高い雑草が伸び放題で訪れる人の侵入を拒むようだったが、結城の冒険心は一層搔き立てられる。

 入口を入ってすぐには程よい広さの広場が有り、右手には朽ちかけた土壁の納屋が有った。叔父がホームに入居してから2年近く経つので廃墟同然かと思ったが、不思議と所々が崩れ落ちちつつも小奇麗に保たれている。入口こそ雑草が伸び放題だったが、なぜか敷地の中は誰かが定期的に手入れでもしているのだろうか、と思うほど、人の気配を感じさせた。

「。。。すげぇ。。。いい感じ。」


納屋の右隣りには、叔父さん家族が住んでいた母屋が有る。ここも確か大正時代頃に建てられた建物に改修を加えて住んでいると聞いた。古いが質が良い瓦屋根の二階建ての日本家屋だ。もしかして玄関の鍵も開いているかな、と引き戸に手をかけてみるが、さすがに締まっていた。


 ぐるりと敷地を散歩してから木の柵で出来たゲートを開けて、隣の畑に出る。まっすぐに伸びる一本の畦道の先に、車が何台か止まっているのが見えた。

遠目にしか見えないが、何人か男女が分厚いジャケットとつばの大きい帽子をかぶって農作業をしている。

― あそこが貸農園なのか。。。。。


「。。あ。。。こんにちは。。。」

透き通る様な女性の声がして、驚いて振り返った。

納屋の前に、一人の少女が呆然と立ち尽くしている。

ツバの大きな麦わら帽子をかぶっているので顔がよく見えない。黒いズボンに黒い長靴、右手には草刈り用のカマを握りしめている。

「あ、どうも。。こんにちは。。。あの。。。えっと、十条です。そこの農園を管理してる。。。。」

なんだか自分が悪いことでもしている様な気がしておどおどしながら、ぺこりと頭を下げた。

「あっ、十条さん?もしかして息子さんですか?」

彼女が帽子をさっと取る。

あ。。。。。。

思わずはっと息を呑んでしまった。


外国人だろうか?

栗色の柔らかい髪が滝の様に肩に流れている。指で触れたら、その内側に吸い込まれてしまいそうな美しい白い肌の頬は、暑さのせいだろうか、鮮やかなピンク色だ。長いまつ毛の下の栗色の瞳が朝陽を浴びて複雑な輝きを見せている。

 彼女の美しさに見惚れて黙っていると、女の子はゆっくり三歩、結城の方へ歩いてきた。

「お母さんから聞いてました。東京から息子が帰ってくるって。すごく嬉しそうだった、この一か月。」

「そっか。。。。えっと。。。きみは。。。」

「あ、ごめんなさい。アーリアです。アーリアワトソン、ここの畑を借りてます。イギリスと日本のハーフです。」

「そうなんだ。十条結城です。僕は畑はやってないけど。。。宜しくお願いします。」

 軍手に草刈りカマを握りしめたアーリアが、ぺこりと小さく頭を下げる。背景に見える木造と石造りの納屋が、なぜか西洋の顔立ちをした彼女と柔らかくブレンドしている。アーリアは畑仕事のついでに、時々、この敷地の草の手入れに来ていると、穏やかなで笑顔で教えてくれた。それでこんなに綺麗に庭が保たれているのか。デイホームに居る空見叔父さんが聞いたら泣いて喜ぶだろう。


「あ、まずい。こんな時間だ。仕事始めないと。」

アーリアは汚れた軍手のままスマホをつかむと、結城を見て肩をすぼめた。

「これから出勤なんだ。」

「リモートですけどね。一応は9時から始めることになってるので。自宅だと集中できないから。。。カフェとか、シェアオフィスで仕事してます。」

アーリアはスマホをジャージのポケットにしまうと、大きな草集め用のほうきの様なものを取り、散らかっていた草を集めだした。

「いいよ、残りは僕がやっておく。この後も用事無いから。」

結城が右手を出すと、アーリアは少し躊躇したような顔を見せたが、すぐに頷いてくれた。

「すみません。。。じゃあ、お言葉に甘えて。十条さんは、また来ますか、ここ?」

―この子に会えるのなら毎日でも来たい。。。。

「そうだね、時間が有れば時々寄ってみようと思う。」

嬉しそうに見えないように気を付けながら返事をする。

 

 アーリアは白い粒ぞろいの歯を見せて、にっこりと笑うとまたつばの大きな帽子をすっぽりと頭からかぶった。まるで映画に出てくるワンシーンの様だ。

「それじゃあ。また、会えたら一緒に草刈りでもしましょう。」

「うん。うちの敷地だからね。しっかり手伝うよ。ありがとうね、手入れしてくれて。」

会っておそらく五分すら経っていないのに、もうアーリアが自分の友達で有るような感覚に陥っている。アーリアは敬語で話してくれているのに、自分はタメ語だ。まだ20代の学生にしか見えない。働いているということは意外に年も近いのかもしれない。

 行ってらっしゃい、と軽く右手を上げると、アーリアは小学生の様に手をぶんぶんと振りながら、畑に繋がるあぜ道に繰り出していった。

 

 弾むような元気な後ろ姿から、なかなか目を離すことが出来なかった。 











  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

坂の上の古民家 美琴 @MikotoT

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ