第2話

出勤準備の為にクローゼットを開け、整然と並んだスーツを見ると急に胸がぎゅっと苦しくなる。最初にこの感覚を覚えた時は、疲れているんだな、と思いあまり気にしなかった。いつも通りに出勤して、いつも通り長時間の仕事をこなす。どちらかというと仕事は出来る方だったし、同僚とも仲は良く、金曜は飲みに行って職場の愚痴を言い合い、ストレス解消をした。少なくとも、そうしているつもりだった。

 

 朝、すごく気分が落ち込んで目が覚める、という状態は、その後も続いた。しばらくすると、通勤途中に吐き気を覚える様になった。それでもまだ、身体が疲れているだけなのだ、週末にちゃんと休息すれば治る、と自分の胸に言い聞かせ、何事も無かったかのように毎日やり過ごした。無意識のうちに、わざと明るく振舞おうと顔の表情筋が働いていたのだろうか、周囲からは、「十条さん、いつも元気で明るいね!」、と言われ、その度にいつもほっと胸をなで降ろしていた。

 ある日突然、本当に身体が動かなくなって会社に行けなくなったあの日まで、僕は誰にも相談せず、その意思すらなくて、一人で何とか出来るはずだと硬く信じていた。自分が精神的に弱い所が有るなどと、子供頃から感じたことは一度も無かった。


 遅刻や欠勤が続いた。

 仲の良い同僚は心配してくれた。自分を気にかけてくれて声をかけてくれているのに、それがかえって辛かった。自分の悩みが恥ずかしかったし、少なくとも会社の同僚に聞いてもらうのはすごくつらかった。みんなそれぞれ強いプレッシャーの中、必死にもがいて頑張っているのに、自分だけ弱音は吐くことは出来ない。

 ある日、本当に身体が動かなくなり、ベッドから起き上がることすら辛くなってから、初めて直属の上司に全てを打ち明けた。

 

会社以外の場所で有れば普通に動くことが出来たので、待ち合わせは最寄りの駅から3駅離れた、各駅停車しか止まらない駅の喫茶店にしてもらった。

 こういうシーンを時々ドラマや映画の中で見たことが有る。少し照明を落とした喫茶店。二人がけの黒いソファで神妙な表情で話す上司と部下。

 まさか自分がそのドラマ主人公になる日が来るとは夢にも思ってなかった。

 一体、自分はどうしてこんな風になってしまったのだろうか?

 もう同じようにそれとなくスーツを身にまとい、急いで朝ごはんを書き込んでマンションを飛び出し出勤出来る日は来るのだろうか? 

 その時の自分には、それは夢物語でしかなかった。会社は辞めるつもりでいた。


「そうか。。。やはりそうだったか。。。。」

 温厚な中年男性の中川部長は、さえぎることなく、最後まで僕の話を聞いてくれた。視線テーブルに並べられた二つのコーヒーは一口も口がつけられないまま、すっかり冷めていた。

「もっと早く気づいてあげるべきだったな。申し訳ない。」

 彼の口から出てきた言葉がにわかに信じられなくて、僕は何も言葉が返せなかった。僕の方こそ、もっと早く誰かに相談するべきだったのに。

 僕はとにかく会社を辞めたいという意向を伝えたが、それは時期尚早だとすぐに却下された。

「急ぐことは無い。その前にもう少しやることが有るよ。」僕の緊張をそっと和らげるような穏やかな笑顔をそっと見せると、ようやくコーヒーを一口すすった。そのぬるさに、だろうか、一度顔をしかめたが、すぐに口角を上げて元の笑顔を取り戻す。

「少し休暇を取るといい。人生にはそういう時間も大切だ。」

 休んだ所で会社に戻れる自信は全く無かったが、彼の穏やかな表情を見ていると、反論する気は全く起こらなかった。



 勧められるがまま、会社が提携しているという心療内科の診察を受けた。

 少し疲れた様子の中年の医師は、殆ど僕の顔も見ることは無く、マウスをカチカチとならしながらパソコン画面を見つめている。僕が事前に提出した電子問診票を見ながらの事務的な質疑応答が始まった。

 十五分くらいそうしていただろうか、医師は慣れた口調でさらりと僕の診断について説明を始めた。

 ―まぁ、うつ病状態、と診断できるでしょうね。

「しばらく会社はお休みされた方が良いと思います。」

「そうですか。」

 僕はまるで他人の診断の話を聞く様に、医師からの説明に耳を傾けた。明らかに自分でも異常を感じていたので、驚く内容では無かった。

 服薬すべき薬の説明を受け、ぼんやりとした頭で診察室を出る。待合室の椅子に座った。その後のことは記憶に薄い白いベールがかかった感じで、よく覚えていない。耳が遠くなった気がして、街の喧騒もよく聞こえなくなっていた。

 診断書は、まるで会社のパソコンから印刷ボタンを押して出てくるくらい簡単に作成された。その紙が入った緑の封筒はぺらぺらで薄っぺらかった。自分のコピーを無造作に鞄にしまうと、事前に用意していた会社当ての封筒に入れ、すぐにポストに投函した。

  季節は九月。厳しい残暑が連日続き、空は抜けるように青く、高かったけど、僕の背中にはいつも冷たい水が流れていた。街で見かける人々はみんな最高に楽しそうな時間を過ごしているように見えた。僕だって、つい数かけ月まであのテーブルに居たのに。目を伏せてどこも見ないようにして、地下鉄駅に繋がる階段を下り、ちょうどホームに着いた半蔵門線に飛び乗った。

 会社からは3か月の休暇が降りた。長い休みは大学を卒業以来、4年ぶりだ。

 一人で目黒のマンションで休んだ所で、更に気は滅入るのは確実だ。

 僕が行けるところと言えば、一つしかなかった。

 長野の実家に帰ることにした。





 

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