第13話
♤
「黒崎君」
厨房に一緒に入ったところで音無に呼び止められた。
「ん、どうかした?」
「あの、ええと」
「?」
しかしなぜかもじもじして顔を赤くする音無は、何もなかったかのように玉ねぎを切り始めた。
「……」
「音無、何か言いにくいこと?」
「……名前」
「名前?」
「黒崎君だと、紛らわしいから。名前の方がいいのかなって」
「ええと、それって」
「そ、相馬君って呼んで大丈夫?」
「俺? も、もちろん大丈夫だけど」
「……相馬君」
「う、うん」
名前で呼ばれて、俺の胸はキュンと苦しくなった。
初めて、女の子に名前で呼んでもらった。
やばい、なんか本当に音無が俺のお嫁さんみたいに思えてきたぞ。
……いや、でもなんで急に?
「相馬君」
「は、はい!」
「どうしたの? びっくりして」
「い、いや。名前で呼ばれるの慣れてないから」
「嫌だった?」
「そ、そんなわけないよ。でも、俺って昔から友達付き合い浅くて。名前で呼び合うほどの人とかいなくてさ」
「じゃあ、私が初めて?」
「そう、だね。だからちょっと戸惑ってた」
「うん。そのうち慣れるよね」
音無の顔が少し赤い。
もしかして、彼女も恥ずかしかったのかな?
それなら無理しなくてもいいのに。
「あ、友達帰るみたいだよ?」
「うん、お見送りしてくる」
友達の明日菜さんが席を立つと、そっちへ向いて音無は走っていった。
そしてお見送りしながら楽しそうに話しているところを見ると、やっぱり学校で友人がいないことが不思議でならない。
何か理由があるのだろうけど、思いつかないし。
彼女に関するうわさとかも、なんか抽象的なことばかりだし。
美人だから妬まれてるとか、そんな程度の理由なのかな?
♡
「ありがとね、京香」
「うん、こちらこそ。明日菜、終わったら連絡するね」
「おけー。でもさ、高市から聞いたけどあんた学校で全然友達いないみたいじゃん。大丈夫なのそれ?」
「心配してくれてるの? 優しいね」
「いや、たしかに口下手だけど別にハブられるようなタイプじゃなかったじゃん」
「男の子にはね、相馬君と子供作りたいから近づくなって何人かに言ったらそれっきりで。女の子には、私の相馬君に近づくなって可愛い子たちに注意したらなんか無視されて。でも、誰も何も言ってこないしいいかなって」
「んー、みんなドン引きしてるなそれ」
クスクス笑いながら、明日菜は自転車に乗って帰っていった。
わたしはすぐに店へ戻る。
忙しそうに仕込みの続きをする相馬君が汗を拭っている。
かっこいい。
やっぱり、私はこれでいいんだ。
大好きな人と幸せになるの。
えへへ、花嫁修行がんばろ。
♤
「はあ、疲れた」
土曜日のお昼は、いつもながら大勢のお客さんで賑わう。
この街一番の老舗とあって観光の人も多く、とても数人で捌けるような気がしないほど人が出入りするのだが、今日はそれでもいつもよりスムーズに対応ができた気がする。
もちろんそれは俺のスキルが上がったとか、暇だったからではない。
音無の働きっぷりがすごい。
「ありがとうございました! またよろしくお願いします」
「ありがとー。可愛いねえ京香ちゃん。ほんと、いい看板娘になるよ」
「ありがとうございます♪」
しかも働いてる時は、俺としゃべってる時とは別人のようにルンルンしてる。
表情こそかたいが、しかし声もいつもより高く、明らかに楽しそう。
やっぱりこの仕事が好きなのかな。
「相馬君」
「う、うん? どうしたの音無」
「お客さんはけたからお昼にしなさいって。何食べる?」
「うーん、それならカツ丼でも作ろうか。音無は?」
「同じのでいいよ」
「わかった。じゃあ準備してくる」
自分の賄いは基本的に自分で作って食べるのだけど、こうして誰かの分を一緒に作るのは音無がくるまでやったこともなかった。
父さんと母さんはお昼時を過ぎてしばらく経ってから一度店を閉めるタイミングで二人仲良く食べている。
いつも一緒で、ずっと一緒。
ある意味理想的な夫婦なのかもしれないけど俺にはそんなの無理かなーなんて思ってたが。
「いただきます」
「いただきます」
音無と並んでご飯を食べていると、ふと自分の将来を考えてしまう。
この先ずっと彼女がここにいて、もしも俺と音無が付き合うなんてことになったらそれこそずっと。
こうして並んでご飯食べたりするのだろうか。
いや、まだデートもしたことない子にそんな妄想を働かせてるなんて、キモいな俺。
変に意識しないでおこう。
彼女だってそんなつもりでここにきてるわけじゃないだろうし。
「相馬君」
「な、なに?」
「仕事終わったら予定ある?」
「俺? いや、特にはないけど」
「じゃあ、明日菜に誘われてるんだけど一緒に来る?」
「俺が? でも邪魔したら悪いし」
「来たくないの?」
「そ、そうじゃないけど」
「じゃあ、ついてきて。買い物したいから」
「はあ」
なぜか買い物に誘われた。
これを素直に喜んでいいのか、それともただの荷物持ちとして呼ばれただけなのか。
無表情でカツ丼を食べる音無の横顔を見ながら、俺は少しため息をついた。
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