第9話
「いらっしゃい。あら、田中さんこんばんは。森さんも、いらっしゃい」
開店してすぐ、うちの常連さんたちがやってきた。
近所の文房具屋を営む田中さんは、今年還暦だと言っていたが見た目は若くお酒が大好きな人だ。
森さんは会社勤めのOLで、晩御飯はいつもうちで食べていってくれる。
三十五歳で独身だそうだけど、その手の話題にも寛容というか、自虐的に「結婚できないよー」と言いながら母さんとお喋りしてるような明るい人だ。
「由紀子ちゃん、とりあえずビールね。あれ、バイトの子見つかったのかい?」
「ふふっ、田中さんいいところに気がついたわね。紹介しておくわ。今日から働き始めた京香ちゃん」
「音無京香です、よろしくお願いします」
音無は、母に連れられて田中さんの席へ行くと丁寧に挨拶していた。
厨房からでは会話の内容がいまいち聞こえないのだけど、変な紹介をしないか気が気ではない。
「綺麗で礼儀正しい子だねえ。京香ちゃんはいつまで働いてくれるんだい?」
「ええと」
「田中さん、もしかしたら永久就職かも、なんてねー」
「ほー、そういうことかい。なら、今日はお祝いだなあ、はっはっは」
「ふふふ」
母さんと田中さんは随分ご機嫌そうだ。
それに音無も。
愛想笑いなのかもしれないが、ほんのりと笑顔を浮かべながら中年の輪に入って和んでいる。
気になる。
何も話してるんだ?
「相馬ー、よかったじゃん良い子見つかってー」
そんな時にカウンターから森さんが。
少し嫌味っぽく俺に言った。
「森さん、音無はただの同級生ですから」
「あー、ほんと良い子に育ったねーあんた。でも、あんまり奥手だと婚期逃すわよー、私みたいに」
「いや、結婚なんてそれこそまだ」
「できる時にしとけっての。いいなー
相馬に先越されたかー、ショックー」
森さんは振り返りながら「由紀子さん、私もビール」と。
そのあとは静かに一人で晩酌を始めてしまった。
なんか、みんな俺たちのことを勘違いしてるな。
まあ、主な原因は母さんだけど。
別に同級生の女子がうちにバイトに来てるだけの話なのに。
音無だって、あんまり誤解されすぎたら働きにくいんじゃないかな?
戻ってきたらそれとなくフォローしとくか。
「黒崎君、田中さんがオムレツだって」
ちょうど、オーダーを通しに音無がこっちに来た。
「了解。なあ音無、お客さんに紹介とか嫌じゃなかったか?」
「ううん、全然。みんないい人そうだし。それに、嬉しいよ」
「そ、そっか。ならいいんだけど」
「お母さんも優しいし。私、うまくやっていけそう」
音無が、淡い笑顔を見せた。
俺は、見慣れない彼女の笑顔に思わず見蕩れてしまい、うっかり卵を落としそうになった。
「おっと、危ない危ない」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ。じゃあ、作って持って行くから」
そのまま逃げるように奥へ引っ込んだ。
情けないというか、不謹慎な話だ。
仕事中に同級生に見蕩れて手を止めてしまうなんて。
でも、うまくやっていけそうでよかった。
このまま、しばらく音無はここにいてくれるみたいだし。
……もう少し、プライベートな話とかしてみてもいいのかな?
♡
「京香ちゃん、お酒おかわり」
「こっちはカツ丼二つねー」
「はい、ただいま」
楽しい。
めっちゃ楽しい。
お仕事なんてしたことなかったから不安だったけど、お母さんがお客さん達に「京香ちゃんはうちのお嫁さん」だと紹介してくれるから気分が良い。
嫁姑問題なんかもよく聞くけど、私はうまくやっていけそう。
えへへ、嬉しいな。
うちはいつも家族が忙しくてこういうの憧れてたんだあ。
ふふっ、今日の賄いは何頼もうかな。
黒崎君の作ったチャーハンとか食べたいかも。
あ、そういえば明日は土曜日かあ。
朝から晩までずっと一緒だね。
もう、新婚生活みたい。
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