第5話

「ごめん音無、バタバタしてた」

「ううん、大丈夫」


 音無の前にある器は綺麗に空になっていた。

 完食してくれたということは、褒め言葉もお世辞じゃなかったということなのだろうか。


「もう落ち着いたかな。音無も遅くならないうちに帰らないと。家、近いの?」

「ええと」


 水も空っぽだし、当然お金なんかもらうつもりもないんだけど、なんで帰らないんだろう?

 もしかして俺を待ってくれてた? いや、流石に考えすぎか。


「ごめん京香ちゃん、お待たせ。じゃあこれ、明日からよろしくね」

「あ、はいありがとうございます、ええと」

「お母さんでいいわよ。もしかしたら本当にそうなるかもなんだしー」

「ちょっと母さん、なにしてるんだ?」

「え、明日から京香ちゃんもお手伝いきてくれるんだって」

「……はあ?」


 寝耳に水すぎて変な声が出た。


「じゃあ京香ちゃん、相馬に見送りさせるから今日はそろそろ帰る? 遅くなるといけないから」

「はい、お母さん。明日からよろしくお願いします」


言葉を失う俺を置き去りにして、ふたりでさっさと話が進んでいた。


 そして音無が席を立つと、「ほら、夜道なんだから送っていきなさい」と母さんに背中を押されて二人で外へ。

 ちなみにその時の母さんの顔は、気を利かせてやったんだから感謝しろといわんばかりにニヤついていた。

 

「あの、音無? 母さんに無理矢理誘われたりしてないか?」


 外はすっかり暗くなっていた。

 音無の家がどこかなんて知らないので、スタスタと歩いていく音無についていきながら、母さんが無礼を働いてないか気になって聞いてみた。


「ううん、全然。私も興味あったから」

「そうなの? いや、それならいいんだけど。シフトとかは?」

「来れる日は毎日だって」

「大丈夫なの?」

「うん、暇だから。明日からよろしくね」

「う、うん」


 明日から、音無がうちに毎日やってくる。

 そんな日々を想像すると涼やかな夜の風に吹かれながらも体が少し火照っていた。

 

 そのまま静かな夜道を歩いていると、少ししてから音無が足を止めた。


「うち、ここだから」


 彼女が指差したのは住宅街にある普通の一軒家。

 そして、


「バイバイ、また明日」


 そう言い残して彼女は家の中へ戻って行った。



「……」


 帰り道。

 一人になった俺はなぜか入学式の日の事件を思い出していた。


 今日から晴れて高校生だというめでたい日に、なんとも間が悪いというか俺らしいというか、腹が痛くなった。


 ちょうど式の最中だったが、後ろの方に座っていたことと、痛みが限界だったこともあって屈みながら体育館を出て校舎へ戻り、近くにあるトイレへ駆け込んだ。

 

 なんとか間に合ってホッとしながらトイレを出て手を洗うところまではよかったのだが、そのあとどうやって式に戻ればいいのかわからなくなった。

 で、結局式が終わるまでは外で待とうと、適当に校舎脇をぶらぶらしていると。


 体育館の裏の方で声が聞こえたのだ。


「おいおい、新入生なのにこんなとこいていいのか? ていうか可愛いじゃん、遊びいこうぜ」

「今日は授業もないし、カラオケでも行こーぜ」


 恐る恐る声のする方を覗くと、大柄な男子二人が小柄な女子を囲んでナンパしていた。

 遠目で顔ははっきり見えなかったけど、長い黒髪の女の子だった。

 そして、嫌がっている様子だった。


 

 一方の男子たちは二人とも茶髪で、多分上級生。

 はっきりいって非力な俺が立ち向かっても返り討ちにされるのがオチ。

 かといって見過ごして逃げるのも後味が悪い。

 で、どうするか迷った挙句に、一芝居うった。


「先生、黒崎です。こっちです!」


 もちろん先生なんていやしないのだが、あたかも先生を呼んで助けに駆けつけたように見せようと。

 これで先生にビビって男子たちが逃げてくれたらと思ってそうしたのだが、とりあえずの目論見は当たった。


「お、おい、なんで始業式なのに先生いるんだよ」

「やべっ、次悪さしてるの見つかったら俺、停学なんだよ。どうする?」


 男子たちはオロオロしていた。

 で、その隙に女の子はサッと二人を掻い潜って逃げた。


 と、ここまでは単純に人助けをしただけの話してだったのだが。

 オチとしては、ホッとしてその場で休んでるところを茶髪二人組に見つかって、先生を呼んだことが嘘だとバレて二、三発殴られてKOされたというだけの話。

 

 入学式でみんな出払っていたせいで助けを呼ぶこともできず、ただ痛い思いをしたという苦い思い出だ。


 しかし、あの時の子は誰だったのだろう。

 こっちからも顔が見えなかったくらいだし、当然向こうも俺が誰か見えてもいないだろうけど。


 あの時、俺が身を挺して助けに行ってたらあの子に感謝の一つでもされたのだろうか。

 もちろん感謝してほしくてしたわけじゃないけど。


 会えばわかるのかな。



「相馬、そうまー、起きなさい」 


 翌朝。

 いつもなら自分で勝手に起きるのに、今日は何故か母さんが俺を部屋まで起こしにきた。


「ん……あれ、目覚ましは……いや、まだ六時じゃんか」


 いつもは六時半過ぎに鳴る目覚ましで起きてからゆっくり支度を整えるので目覚ましが鳴ってなくて当然。


 眠い目を擦りながら、すでにエプロン姿の母さんに少しムッとする。


「まさか朝の仕込みまで手伝うの?」

「本当はそうしてほしいけど学校の妨げになったらいけないからそれはいいって言ってるでしょ」

「じゃあ何の用だよ」

「朝ごはんよ。あんた、いつもろくに食べないでいるから」

「……?」


 母さんの様子が変だ。

 いや、別に息子に対して朝飯を食べろと言ってるだけのことなのだけど、なんかニヤニヤしてるというかフワフワしてるというか。


 朝飯が理由じゃないなこれ。


「おやすみ、もうちょい寝る」

「こら、起きなさい。京香ちゃんが待ってるんだか……あ、言っちゃった」

「え? 音無?」


 布団を被りかけたところで、慌てて俺は飛び起きた。

 なんで音無が朝から?

 まさか母さんが呼んだのか?


「ま、そういうことだから早く降りてきなさい」

「ま、待てよどういう……あっ」


 俺が何か聞く前に母さんは部屋からさっさと出て行ってしまった。

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