空色の傘は嘘

空色の傘は嘘




「女って、男の前では計算できないフリをするんだって」



 得意げに言った晴彦くんに、私は言葉を失った。それから、止まった頭を無理に回転させて、やっとの思いで、絞り出すように「へえ、そうなんだ」と返した。


 私のことを言われたわけではないのに、なんとなく気まずい思いがして、視線を泳がせる。コーヒーカップを、そっとソーサーの上に戻した。


 少し離れた席で、向かい合って座っている男女。女の子の方が、わざとらしくお馬鹿さんアピールをしたところで、それをきっかけに、彼はこの話を思い出した。そして迷わず、口にした。彼にはそういう、唐突に外からの言葉を拾って軽やかに脇道へ入っていく、女の子みたいな身軽さがある。



「数学的な計算ができないってことを伝えて、別の意味でも計算がない女だってことをアピールするのが、恥ずかしながら男には有効なんだよね。俺はそこに嘘が含まれていることに気がつくと、興ざめしちゃうタイプなんだけど」



 朗々と話す晴彦くんの手元に視線を落とす。氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーが、グラスの底で二層に分かれようとしていた。彼が、少し離れた席に座るあの子に、これを聞かせようとしているのか、別段何も考えていないのか、私には判断がつかなかった。


 だって会うのはまだ、二回目だ。だけど、ちょっと、これは、なんというか、苦手、かもしれない。頭の奥で、警報音が鳴っている。できるだけ自然な形で話題をそらせ、と。



「……晴彦くんって理系なの?」

「いや、文系。××大の法学部卒だって話さなかったっけ?」

「えっ……あ、そっか、ごめん」



 大学名を知り、私は絶対に聞いていないと確信したけど、言い返すのも面倒なのでそのまま受け流した。



「高校でも数学は得意だったけど、文系が習う数学なんてきっと大したものじゃないから」



 そういうわけで公式の場での実力のほどはわからないが、きちんと勉強すればそこらへんの理系には引けを取らないはず――と、心の声が聞こえた気がした。


 初めて会った時、最初の会話から、晴彦くんはこうだった、と思い出す。



「雛子ちゃん、なにが食べたい?」

「私、あまり好き嫌いないので、晴彦さんの好きなもので大丈夫です」

「そう? うーん、本当はラーメンが一番好きなんだけど、初対面の女の子を誘うものじゃないよね」

「私も好きですよ、ラーメン」

「うん、でも困っちゃわない? 普段はすすって食べていても、初対面の男の人の前だから、音を立てずに食べたほうがいいんだろうか、とか、考えない?」

「……覚えがないわけじゃないですけど、そうやってあけすけに言われたのは、初めてです」



 私の答えに、晴彦くんはどこか満足げに微笑んだ。


 この人はきっと、モテる人なのだ。そういう計算をする、可愛い女性から。だから、異性からの視線に対して、男として裸で、手ぶらのままで、真っ直ぐに向き合うだけの自信を当然のように持ち合わせている。


 それが、いいと思った。私にはないものだったから。恋人には、自分にはないものを持つ人を選んだ方が、きっとうまくいくに違いない。



「でも結局、長く付き合ったらそういうのってボロが出るだろ。俺、その瞬間が嫌いなんだよな。だから、俺の前ですすってもいいって思ってもらえる関係になるまで、ラーメン屋には連れていかない。オススメのお店は、結構あるんだけどね」

「じゃあ、今日はできるだけ素の私でいられるように努力します」

「ありがとう、ついでに敬語もやめていいよ」


「わかりました」「ほら、敬語」「すみませ……あ、ごめん」と、定型文のようなやりとりを経て、晴彦くんオススメのインドカレーのお店へ入った。久しぶりに食べたグリーンカレーは、まあ、美味しかった。



 彼が私のどこを気に入ったのかはわからないけど、私たちはその日、帰り際に軽いキスをして別れた。タンドリーチキンの香りだった。それからこれが、きっと健全な男女の始まり方なのかもしれない、と思った。



「じゃあ、そろそろ行こうか」



 彼のコーヒーが空になった時、私のカップにはまだうっすらとコーヒーが残っていたけど、私はそれを飲まないまま立ち上がった。彼は、私のコップの中身など、気にもとめていないようだった。


 店を出ると、自然と手を繋がれる。握手をするような軽々しさで、私が転んでも助けてはくれそうにない繋ぎ方だった。


 そのまま、映画館へ向かった。話題作を観る予定で、まだ上映までに時間はあったけど、あいにく、いい席はすべて埋まってしまっていた。ため息をついた晴彦くんが、


「まじかよ……予約しておけば、な」

「仕方ないよ。端の席で観る? それとも、他の映画を観る?」

「他に観たいものもないし、いいよ。そうだ、夜景でも見に行こうか。いい場所を知ってるんだ、ここから車ですぐのところ。行ったことないでしょ? でも次は、しておいてよ」



 最後に言われたそれが、映画の予約の話だとわかるのに、数秒かかった。


 映画に誘ったのは彼だった。この映画を観たいと言ったのは、私だった。そうか、私が予約しておけばよかった。人気作だとわかっていたのに。


「うん、ごめんね」


 繋がれた手は、いつのまにか解けていた。





 彼の言う夜景の綺麗な場所というのが、夜景を見るという口実で誘い出して駐車場でセックスをするための場所だということはなんとなくわかっていたけど、私はそれについて何も言わず、少しだけはしゃぐように「こんな暗い山道、よく運転できるね、すごい」なんて声をあげて、助手席に座っていた。


 そうしているうちに少しずつ彼の口数が増えて、やがて、軽やかな口調を取り戻した。心なしか、車のスピードが上がっていく。そこで、ふと気がつく。私は私の知らない歩幅で、思ってもみなかった速さで、セックスへ向かって進んでいる。



「あっ……」


 と彼が言って、緩やかに車が減速し、やがて止まった。まだ、山頂にはあと少し距離がある。どうしたんだろう、と思って彼の方を見たとき、運転席側の窓ガラスに、大粒の雨が落ちた。彼の視線の先を追うように前を見ると、そこから一気に雨が本降りになった。窓が曇って、視界が歪んだような心地がした。


「……これじゃ星、見えないな」



 彼の横顔は、本当にそれを残念がっているようにも思えたし、計画がことごとくうまくいかないことに苛立っているようにも思えた。


 どうせ車の中でセックスをするだけなら、雨でも晴れでも変わらないじゃないか。


 そう、思ったけど。でも、たぶん、彼はしないだろうな、と思った。セックスをするために車を走らせていたと、彼は私に認めない気がした。ロマンチックな星空を見上げて、そうしているうちになんとなく、自然と、流れるように、どちらともなくそういう雰囲気になった、という口実が彼には必要なのだ。私みたいな女を抱くためには。



「どう、する?」



 声が震えないように、誘っているともいないともわからないような声で、晴彦くんに問いかける。さっきまでセックスをしてもいいと思っていたのに、急速に湿気を帯びていく車の中で、その気持ちはどこか遠いところへ駆けていった。



「今日は帰るか」

「……そう、だね」

「駅前でいい?」

「あ、うん、ありがとう」



 初めて会ったときに別れたのと同じ駅で、土砂降りの中、私は晴彦くんの車を降りた。


「傘、持っていきなよ」


 雨に濡れる私を見て、晴彦くんが後部座席に腕を伸ばして傘を取り、助手席側の窓を開け、私に手渡した。



「ありがとう」



 外に出る前に渡してくれれば濡れずに済んだのに、とは顔にも態度にも出さず、笑顔で受け取る。



「あ、この傘」

「……なに?」


「元彼と同じ」という言葉を、すんでのところで飲み込んだ。この言葉を飲み込むのは、今日、二度目のことだ。一度目は、出身大学の名前を聞いたとき。そういえば彼も、法学部だった。年齢も近いし、もしかしたら知り合いかもしれない、と思いながら傘を見下ろした。


 内側に、青空が描かれた傘。外から見ると普通の黒い傘だけど、差すと自分の上にだけ青空が広がって気分がいいんだ、と言いながら左の口角だけを上げる卑屈そうな笑みが脳裏に浮かんだ。



「……可愛い傘だね」


 晴彦くんはその答えに納得したのか、特に何の反応もせずに窓を閉めて、左手を軽く私の方へ上げ、そのまま車を走らせた。


 曖昧に始まった恋のようなものの、はっきりとした終わりを見てしまった気がした。きっともう、会うことはないんだろう。そう、思った。





 けれど、翌日、晴彦くんから連絡があった。あんなに曖昧な始まり方だったのに、この人は、ちゃんと面と向かって別れを告げようとしているのだ。そう思うと、なんだか彼が、誰よりも律儀で正しい人のように思えた。


 また駅前で待ち合わせて、値段はそこそこでそれなりに雰囲気のいいイタリアンを食べ、ワインを飲み、彼の部屋で一夜を過ごすことになった。


 私はその日、彼の口からこの関係の終わりを告げられるタイミングを見計らっていて、自分が今、セックスのためのまな板の上にいることに気がつかなかった。気がついたときにはもう、私の身体と晴彦くんの身体を隔てるものは0.02ミリのポリウレタンだけだった。



「……気持ち、いい?」

「うん……」



 繰り返される質問に何度も頷く。その度、彼は満足げに笑って、それからまた、懸命に腰や指を動かした。気持ちがいいとか、痛いとか、そういうことじゃなくて、私は自分の顔を隠すことに頭がいっぱいだった。セックスをしているときの私の顔なんて、きっと見るに耐えない。それだけを思っていて、好きも嫌いも、痛みも快感も、そこにあるはずのものは、私の中にはないような気がした。



「ねえ、雛子」

「なに?」

「もしかして、初めてだった?」



 汗でぐっしょりと濡れたシーツに晴彦くんが消臭スプレーをかけて、それが乾くまでの間、私たちはお風呂に入ることにした。てっきりひとりずつ入るものだと思っていたので、私に続いて晴彦くんが浴室へ入ってきたとき、驚いた顔をしてしまった。その顔を見て、晴彦くんが聞いた。セックスは、初めてだったのか、って。


 こういうとき、初めてだと言ってほしい人と、そうじゃない人がいることは、なんとなく知っていた。経験としてではなく、知識として。


 私には確信があった。



「……うん、初めて」

「そっか」

「二十二歳で初めてなんて、恥ずかしくて、言えなくてごめん」



 彼がほしい言葉はこっち。


 予想通り、晴彦くんは満足げに笑みを深める。自身の頭に当てていたシャワーのお湯を私の肩に当てて、



「冷えちゃうよ、こっちおいで」


 優しい言葉と手つきで、私の身体を征服していく。シャワーから流れるお湯の温度が、冷えた頭を温めていった。


 晴彦くんと知り合ったのは、職場の先輩の紹介だった。取引先の新人に、利根崎さんにぴったりの人がいるから、と連絡先を交換させられた。会ったこともない人とメールをするなんて経験、今までなかったから、どうすればいいのかわからなくて。しかも相手は取引先の人で、私は結局、初めて会う約束をする時まで堅い文面のままでメールを送り続けた。



「なんか、メールと印象が違うね」

「そう、ですか」


 スパイスの利いたグリーンカレーを食べながら、晴彦くんは時折、何かを確認するように私のことをじっと見ていた。その視線が気になって、私は、いつも自分がどんなふうに食事をしていたのか見失いそうになる。晴彦くんの視線は、そういう視線だった。遠慮がなく、まっすぐで、品定めをするような。けれど、決して下品ではない。



「雛子ちゃん、また、敬語」

「あっ……ごめんね」


 そこだけは譲れないようで、私はその日、それを何度も指摘されながら、少しずつ心が懐柔されていく心地がした。もしかしたら、恋に落ちるかもしれない、という予感がそこにはずっと横たわっていた。そして、今も。晴彦くんが一人暮らししているワンルームの、二人で入るには少し手狭な浴槽に一緒に浸かりながら、その予感が水面に浮かんでは沈んでいく。


 私の身体を晴彦くんが抱きかかえる形で、左の耳元には晴彦くんの唇が当たっていた。時々、ちゅ、と音を立ててくすぐられる。



「雛子、気持ちよかった?」

「……うん、気持ちよかった」



 ぎゅう、と力一杯抱きしめられて、お風呂のお湯が音を立てて溢れていく。晴彦くんの表情は見えなかったけど、笑ってはいないような気がした。


「雛子、可愛いね」


 そんな馬鹿な、と思ったけど、私は、甘くてなんとなく気だるいこの空気を壊すのが怖くて、「ありがとう」と返した。





 それから何度目かのデートを終えて、初めて晴彦くんが私の部屋に泊まった時。私たちは当たり前のように同じ布団で眠り、キスをして、洋服を捲り上げ、貪るようなセックスをした。彼とのセックスは、慣れてしまえばどうということもなかった。上手いか下手かなんて、判断できるだけの材料は持ち合わせていないけど、きっと上手いのだろうと思う。自身の、私の、身体の扱い方に不自然さを感じさせない。


 最初に感じたはずの痛みは、挿入される時だけになり、その痛みもあと数回で消える予感がした。私の身体の中が、私が望んだわけでもないのに、彼のために形を変えていく。



「雛子って、学生時代どういう感じだったの?」


 晴彦くんは必ず、セックスをした後にベランダでタバコを一本吸う。いつも見ているベランダなのに、それだけで、まるで別の場所のようだ、と思いながら彼を見ていた。戻ってきた晴彦くんは、ベッドに腰掛けて私の髪を撫で、突然、そう聞いてきた。



「学生時代って……大学生の時? 高校生の時? それとも、もっと前?」

「うーん、高校生の時から聞こうかな」


 晴彦くんが、そっと私の髪をすくい上げ、頭を撫でた。セックスをすると、晴彦くんはこうやって、まるで子どもをあやすように私を甘やかす。言葉がいつもより丸みを帯びて、私は言わなくてもいいことまで言ってしまいそうな気がした。



「高校生の時は、できるだけフラットでいようって思ってる子どもだった」

「フラット?」

「うん、クラスの誰とでも、適切な距離感で、適切な関係を築けるような」


 私の答えに、晴彦くんは「ふうん」とため息のような返事をして、ベッドに横になる。


「仲のいい友達は?」

「いるには、いたけど」

「けど、その子には自分よりもっと仲のいい友達がいた?」

「……そうね」


 晴彦くんの言葉を肯定すると、彼は満足そうに微笑んだ。


「浅く広く付き合うタイプって、本当の親友がいなかったりするよな」



 彼の言葉が、私の心の奥をざらざらと撫でる。彼の口から出た親友、という言葉はなんだか子どもじみていて、血が通っていないように思えた。


 彼はこうやって、言葉で牽制しないと不安で仕方がない人だ。悪気も、悪意もない。自分を守るためだから。誰かを、傷つけるつもりなんて毛頭ないんだから。



「……晴彦くんは? どういう子どもだった?」

「俺は今とあまり変わらないけど、嘘の嫌いな子どもだったな。もう、ほとんどアレルギーみたいなものだった」

「嘘、アレルギー?」

「ああ。アレルギーだから同級生どころか大人がつく嘘もすぐにわかったよ。レベルの低い嘘がバレないと思っている同級生のことは嫌いだったし、嘘はダメだと言いながら嘘をつく大人には反吐が出た」

「晴彦くんらしい」

「そう?」



 晴彦くんは私の頭を撫でていた手を、自分の頭の後ろに回して、天井を仰ぐ。ベッド脇の間接照明が、ぼんやりとオレンジ色の円を描いていた。私は掛け布団を口元まで引き上げる。



「嘘をつくっていうのは、相手を舐めていないとできないんだよ。この嘘でこいつは騙せる、騙せなくてもこいつなら害はない、こいつなら結局俺を許す」

「そう思われていると感じるから、嘘をつかれるのが嫌いなの?」

「感じるから、じゃない、事実そうだから、だよ。だから、一つでも嘘をつかれると、俺はもう、その人と一緒にいられない。当然だろ? その人は、俺をバカにしながら隣にいるんだ」



 晴彦くんの顔がゆっくりと私の方へ向く。



「俺には嘘をつかないって約束してくれる?」

「……もちろん」



 私の口元を隠していた掛け布団を晴彦くんがそっとずらして、私の言葉を飲み干すように唇を重ねた。シーツの音が、耳元でさざ波のように擦れた。唇を割いて現れた舌先はしっとりと濡れていて、独特の苦味を連れてくる。煙草味のキス。私の耳を塞ぐように添えられた手のひらからも、燻された男臭さが香った。






 高校時代の話をした数日後、懐かしい気持ちになって、私はなんとなく友達に電話をかけてみた。話している内に、もう二年も会っていないことがわかって、いい機会だから彼氏を紹介してくれないか、と言われたのがきっかけだった。



「……雛子の友達?」

「うん、ダメかな」


 友達に会ってくれないか、と尋ねると、あからさまに嫌そうな答えが返ってきた。晴彦くんは読んでいるのかわからない雑誌を開いたまま、姿勢を崩してソファに沈んでいく。



「何のために?」

「何のって……別に、会いたいって言われただけだけど……」

「はぁー」


 わざとらしいため息を吐いて、晴彦くんが天井を仰いだ。


「女って本当、面倒臭いな」

「え?」

「どうせ俺のことをジャッジするためだろ。あいつはやめときなよ、とか、あの人のどこが好きなの、とか会わせた後で言い合うんだろ」

「そんなことしないよ」

「そりゃ、そんなことするとは言えないよな!」


 ダン! と大きな音を立てて、持っていた雑誌をローテーブルの上に叩きつけた。直接身体を叩かれたように肩が跳ねて、心臓が、どくどくと音を身体中に響かせる。



「言っただろ、嘘をつくなって」

「ご、ごめ、なさ、でも」

「……帰るわ」



 面倒臭そうに吐き捨てて、晴彦くんは部屋を出ていった。心音が、おさまらない。その場から動けなくて、意識的にゆっくりと呼吸を繰り返す。



 何が起きたのか、整理しないと。

 私は、だって、嘘なんてついていない。

 そんなこと、晴彦くんだってわかっているはず。

 だから、大丈夫。わかってくれる。



 頭の奥が、ガンガンと痛む。警報が鳴り響いて、思考を鈍らせていく。とにかく、連絡を取らないと。このままでは、終わってしまう。私はただ、晴彦くんを友達と引き合わせて、彼氏かっこいいね、って言ってほしかった。良い人だね、すごくお似合いだよ、って思ってほしかった。それだけだったのに。



 そんなつもりじゃなかったけど、嫌な思いをさせてごめんなさい。友達とは会わなくて大丈夫だから、ごめんね――頭の中で何度も角を削って整えた言葉を、スマホに打ち込む。指先が震えて、間違えては消し、打ち直し、晴彦くんが部屋を出て三十分以上経ってようやく、私はそのメールを送った。



「しばらく連絡してこないで」



 晴彦くんから送られてきた返事は、それだけだった。どうして、とか。待って、とか。違うよ、とか。言いたいことはたくさんあったのに。私はもう、それ以上メールを送ることができなかった。




 それからしばらくして、晴彦くんは何の前触れもなしに私の部屋へやってきた。何もなかったかのように、むしろ前よりも柔らかな態度で、まるで実家に帰った時のような気安さで部屋に上がり、そのまま、流れるように唇を重ねた。抱きしめられると、晴彦君の身体は走った後のように熱くて、数日会わなかっただけなのに、永遠の果てから訪れたようで、懐かしさと愛おしさで胸を締め付ける彼の匂いが、甘く鼻孔をくすぐる。欲情に濡れた彼の瞳を見ていると、微かに保っていた理性が弾けて、目頭が熱くなるのを感じた。



「……泣いてんの。かわいい」



 自分がどうして泣いているのか、私にはさっぱりわからないのに、晴彦くんはそれを見て笑いながら、私の頬を包み込むように手を添えて、指先で私の涙をすくう。私の涙が、彼への好意を、どうしようもない依存を、彼に確信させてしまったようだった。頭の奥で鳴り響く警報を、私は無視した。だって、どうしようもなく、私には彼が必要だって思った。




 だからこれが、言葉の暴力だって、私は気がつけなかった。

 初めて頬をぶたれたのは、私が、真っ白なシーツと一緒に、ピンク色のタオルを洗ってしまった時だった。


「で、でも洗濯機に入れたのは私じゃ――」



 反論しようとした私を見下ろす、晴彦くんの顔。冷たくて、目の奥が真っ黒で、その瞳に、私は映っていないようだった。





もう、頭の奥で警報はならなかった。




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