第13話 狐の涙と心の距離
「……他の女の匂い」
「……っ!?」
底冷えするような声で発せられた美緒の呟き。
明人は無意識の内に一歩後退る。
冷や汗が自身の背中をツゥーっとなぞっているのがわかる。
美緒が顔を俯かせたまま再び口を開く。
「明人様、アルバイトに行かれていたのですよね?」
「あ、あぁ……」
「匂いというのは素直です。数多の情報を教えてくれます。もし明人様がアルバイトで接客をしているだけであれば、老若男女様々な人間の匂いが僅かなりともついていることでしょう……」
「お、おい……別に嘘なんか言ってないぞ? ちゃんと喫茶店でバイトを――」
「――わかっています。明人様の身体にはコーヒーの香りや、その他料理の匂いが付いていますから」
「だ、だろ?」
「ですから、なおさら解せないのです……っ!!」
美緒が俯かせていた顔を持ち上げた。
泣いている。
いや、正確には今にも泣き出しそうになっている。
明人を見詰める目は悲し気に細められ、目尻には薄く涙が滲んでいた。
「それらのどの匂いにも勝って、一人の女の匂いがより濃く明人様についているのはなぜですかっ!?」
これまで何度素っ気なく、冷たくされても前向きだった美緒が。
毎日追い出されても翌朝には懲りずに戻ってくる美緒が。
今、明人に向かって初めて声を大きくした。
「な、なぜって……」
明人にも思い至ることはあった。
まず間違いなく雪奈だろう。
部屋に入ったこともそうだし、勉強を見るとき隣に並んでいたのも原因のはずだ。
しかし、別にやましいことはしていない。
だというのに、奏斗はまるで浮気がバレて彼女に問い詰められる彼氏のような感覚に陥ってしまう。
美緒は胸の前でギュッと拳を握り込み、着物にシワを作った。
「私がいくらお誘いしても頑なに近付けさせてくださらないのにっ! その女は、これほどハッキリと匂いを付けられるまでに擦り寄らせているのですかっ……!?」
「す、擦り寄らせるってお前なぁ……」
「なぜですか……私の何がいけませんかっ!? 魅力的ではないですか? 明人様の琴線に触れませんか? 私の……何が、足りないのでしょうかっ……!」
遂に美緒の目尻から溜まりに溜まった涙が溢れた。
静かに頬を伝い、顎へ雫を作り、ポタリと落ちる。
それでも、美緒は意見を求めるように明人から視線を外さなかった。
「き、狐……」
「……」
数秒、互いに無言で視線を合わせていたが、ふと美緒が悲し気に目を背けた。
「気付いていますか……? まだ、私の名前を一度も呼ばれていないことに……」
「そ、それは……」
この一時の間に、美緒の脳裏にはこれまでの日々の光景が過っていた。
いつか明人様と添い遂げるのだと夢見て努力は欠かさなかった。
胃袋を掴むべく、幼い頃から料理の練習を重ねてきた。
目を楽しませられるよう、容姿も磨いた。
女性の命とも言える髪は毎日欠かさず櫛を通してきたし、触れて気持ちいいと思ってもらえるよう肌の手入れも怠らなかった。
やれることは、すべてやってきたつもりだった。
でも…………
美緒はどこか自嘲気味に口許を歪め、呟く。
「……やはり、私はダメですか………」
「――ッ!」
明人は自分の胸の奥にズキッと激しい痛みを感じた。
それは切なく胸が締め付けられるようで、悲しみが心臓の膜を破るかのよう。
気付いたときには、叫んでいた。
「んなワケないだろッ!」
美緒がビクッと身体を震わせて、驚愕の瞳を明人に向けた。
だが、一番驚いているのは明人自身だった。
一度言葉が出たのを切っ掛けに、心の内に隠していた本音が不思議なほど素直に溢れ出してくる。
「私はダメ? 魅力がない? お前の目は節穴か!?」
「えっ……?」
「めっちゃ可愛いに決まってんだろッ!!」
「~~ッ!?!?」
今度は美緒が気圧される番だった。
とても明人の口から出ているとは思えない言葉に、愕然としつつも顔が真っ赤に染まる。
「ぶっちゃけ琴線に触れまくりだし、見た目はもちろん一途に俺のこと想ってくれてるのも最高に可愛いよ!」
止まらない。
明人の口から出る言葉が止まらない。
「そうとも知らずに毎度毎度構わずくっ付こうとしてきやがって……俺がどんだけドキドキしてると思ってんだよっ! 俺の理性も限界があるんだってことわかれっ!」
まだ言いたいことは山ほどある。
鬱陶しいと思いながらも、美緒が現れてから一人暮らしの生活に色が付いたこと。
食事するのを怠りがちな自分に、美味しい料理を作ってくれていること。
等々……。
だが、それらをすべて言っていてはキリがない。
明人は最後に一番伝えたかったことだけ言うことにした。
「だから、二度と自分がダメとか言うな……!」
わかったか、と確認する明人。
美緒はいつの間にか恥ずかしさで真っ赤になった顔を両手で覆い隠していたが、その状態のままコクコクと頷いた。
「あぁ~、恥ずかし……」
正直、明人は自分が具体的にどんなことを言ったかを覚えてなかった。
心の底から溢れ出れ来るままに。
勢いのままに。
間違いなく本音と断言出来ることを吐き出した。
ただそれだけ。
しかし、取り敢えず恥ずかしいことを言ってしまったということだけはわかっていた。
「はぁ……あと、その女性の匂いって言うのは多分雪奈だ。俺の友達の妹で、ただ勉強を見てただけだから……」
明人はもうぐったりといった様子で廊下の壁に背を預ける。
「勉強を……?」
美緒が顔を覆った手の隙間から、チラリと視線を覗かせて聞いてきた。
「ああ。もうすぐ高校受験なんだ……」
「そ、そうだったんですか……」
「……」
「……」
両者の間に気恥ずかしい沈黙が訪れる。
壁に背を預けて立ち、指で頬を掻く明人。
そんな明人をチラチラ盗み見ながら佇む美緒。
しばらくそんな状態が続いたが、先に明人が沈黙を破った。
「んぁ~、そういえばお前、実家には帰れないとか言ってたよな?」
「あ、はい……」
まだ顔に赤みは残るものの、美緒は背筋を正して説明した。
「その、家の反対を押し切ってここまで来たものですから……もう帰る場所がないと言いますか。帰っても恐らく……」
「追い出される、か」
「ですね……」
明人は後ろ首を右手で撫でて「はぁ~」と大きくため息を吐いた。
「一応聞くが、俺を諦めるっていう選択肢は――」
「――ありません」
「ですよねぇ……」
うぅん、と明人は何かを考え込むように唸る。
いや、何かを決意するための時間か。
「はぁ、仕方ないか……」
明人は美緒に半目を向けて言う。
「お前が実家に帰れるようになるまで、ここに住んで良い」
「……えっ、それはほんと――」
「――ただしっ!」
喜ぶのはまだ早いとばかりに、明人は美緒の言葉を手で制した。
「前みたいに勝手に布団に入り込んできたりするのは駄目。許可なく必要以上にくっついてくるのも禁止だ。良いな?」
「はい……はいっ、もちろんですっ!」
美緒の頭上の耳が嬉しそうにピンと立つ。
尻尾も後ろで左右に揺れている。
(ったく、マジで嬉しそうな顔しやがって……)
明人はそう心の中で呆れながらも、表情はどこか柔らかかった。
「俺はただ、お前を公園や路地裏で寝かせておいてもし何かあったら寝覚めが悪いから提案しただけだからな。変な勘違いするなよ?」
「ふふっ、わかっています」
「な、なら良い。ほら、行くぞ……美緒……」
明人はそう言って、スタスタと足早にリビングへ向かって行った。
「……ふふっ」
初めて名前を呼ばれた。
美緒はそのどうしようもない嬉しさに、自然と表情を綻ばせ、明人の後を追い掛けた。
明人は適当なところに荷物を置き、ソファーに座る。
すると、少し離れたところに美緒が立った。
どこか恥ずかしそうにじんわり頬を色付け、モジモジとしている。
「その、明人様……」
「ん?」
「お傍に、行っても……?」
「んっ……!?」
早速美緒は明人の言いつけ通りにしているようだ。
許可なく必要以上にくっつくな――だから、近付きたいときは許可を取らなくてはならない。
だが、こうして実際に許可を求められるとドキッとした。
そんな上目遣いで言われれば余計に。
(って、これって俺が良いって言ったら、まるで俺が傍に来て欲しいみたいじゃないか……!?)
許可を出すとはそう言うことだ。
明人は今になってそのことに気付いた。
しかし、自分から言った手前ルールを変更するのも妙だ。
かと言って、断るのも忍びない。
(さっきコイツを泣かせたばかりだしな……)
明人はコホン、とわざとらしく咳払いをした。
まるで気にしていませんよという雰囲気を作り出すかのように。
「す、好きにしたらいいんじゃないか……?」
「は、はいっ……!」
美緒はパァと表情を明るくして、明人の傍にやって来た。
「失礼します」
明人の左隣にそっと腰を下ろす美緒。
明人の左脚と美緒の右脚が。
明人の左肩と美緒の右肩が優しくも、確かに触れる。
(ち、近くね……?)
そんな明人の心中の動揺など露知らず、美緒は頭を傾けた。
美緒の頭が明人の左肩に預けられ、尻尾が後ろから明人の腰に回された。
(こ、ここまで近付いて良いとは言ってねぇえええ!!)
表面上平静を取り繕いながらも、明人の心臓はどうしようもなく早打ちしていた――――
【あとがき】
読んでいただきありがとうございます!
今回は作者イチオシの話となっていまして、明人と美緒がギクシャクしたものの本音を曝け出して心の距離が縮まる様子を頑張って書きました!
美緒可愛すぎんかっ!?
あと、明人ツンデレか?w
どうか今後ともお付き合いください!
コメントや作品のフォロー、☆☆☆評価もお待ちしております!
ではっ!
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