第12話 狐の鼻は侮れない

「そういえば、受験ももうホントすぐだな。私立は一月だし、公立も三月だろ?」


 今は十一月下旬。

 私立高校入試まであと一ヶ月ちょっと。

 公立高校入試まであと三ヶ月ちょっと。


 そして、雪奈の第一志望は明人や洋介と同じ私立――景星館高校だ。


 そう考えると、もうあまり時間は残されていない。


 去年同じ立場にあった明人も、この時期から入試当日までは一瞬で月日が飛んでいったような感覚だった。


「そ。だから、今のうちに不安な単元を教えてもらいたい……綿矢先輩に」


 雪奈がそう答えながら、折り畳み式の座卓を部屋の真ん中に出してきた。


 明人に勉強を見てもらうときの、いつもの光景だ。


 明人自身は別に普段雪奈が使っているであろう学習机で良いのだが、雪奈が座卓の方がやりやすいと言うのでその通りにしている。


「もちろん。俺に出来る範囲で良ければいくらでも教えるぞ」


「ん、ありがと」


 一見すると表情から感情を読み取ることが出来ない雪奈。

 だが、もうそれなりの付き合いがある明人は、こういうときに雪奈が見せるほんの僅かな笑みをきちんと見て取ることが出来た。


「それで、何からやろうか?」


「数学。景星館の過去問解いてて、わからないところがあった」


「どれどれ……」


 明人は座卓を挟んで雪奈の対面から問題を覗き込む。

 その様子を見た雪奈が、「ん」と声を漏らして自分が座る隣をポンポンと叩いた。


「そこからじゃ、見えづらいでしょ」


「あぁ、いや。大丈夫だぞ。問題はちゃんと――」


「――こっち」


 別に反対側からでも見えるんだけどなぁ、と思った明人。

 だが、雪奈が栗色の瞳をジッと真っ直ぐ向けてくる。

 有無を言わさぬ、と言った感じだ。


「わ、わかった……」


 折れた明人は腰を上げて、雪奈の隣に座り直した。


 座卓がそんなに大きくないので、隣から問題を見ようとすると、やはり雪奈と肩が触れ合うくらいの距離感にはなってしまう。


「狭くない?」


「狭くない」


 即答だった。


 雪奈も年頃の女子であるし、むやみに近付くのは良くないのではと思っての発言だったが、どうやらその心配はなかったらしい。


(んまぁ、雪奈ってこういうのあんまり気にするタイプじゃないんだろうな)


 雪奈が良いなら別に良い。

 明人はそんなスタンスだった。


「じゃあ、早速やっていくか。えぇっと、これは一次関数と二次関数のグラフが交わってできた図形の面積を求める問題だから――」


「……」


 問題の解き方を解説し始める明人。

 右手に持ったペンの先で注目箇所を指す度に、その左肩が雪奈の右肩と触れる。


 解説に集中している明人は気付かない。

 それに明人自身も、雪奈はこういうことを気にしないと思っている。


 しかし、微かに肩が、ときに腕が触れ合うたびに、無機質な雪奈の表情に赤みが差していた。


「……ふふ」


「ん? どうした雪奈?」


「何でもない。ただ、って思っただけ」


「おっ、流石呑み込みが早いな。そうなんだよ。このコツがわかるだけでこの問題は――」


 問題の話じゃない。


 雪奈は少し可笑しく思えて、僅かに口許を緩めていた。


(……触れるのは簡単。でも、綿矢先輩凄く鈍感だから……わかってもらうのは、簡単じゃない)



◇◆◇



 二時間ほど雪奈の勉強を見た明人。

 満足そうな様子の雪奈に見送られて自転車に乗って帰路に就く。


 午後七時半頃に帰宅。


「ふぅ、寒かった……」


 玄関の鍵を開けて中に入ると――――


「お帰りなさいませ、明人様。遅かったですね?」


「やっぱまだいたのか……」


 どうやら明人が帰って来た気配を察知していたようで、既に美緒が玄関で待ち構えていた。


「どういたしましょう。まずはご飯にします? お風呂にします? それとも――」


 スッと美緒が明人の胸に擦り寄ってくると、どこか蠱惑的な微笑みを浮かべて囁いた。


「――私をご所望で?」


「……っ!?」


 前半の台詞からそんなことを言ってくるだろうとは予想していた。

 だが、わかっていても、構えていても明人の心臓は意に反して大きく跳ねてしまった。


(いちいち心臓に悪いことしてきやがって……!)


 明人は自分の顔が熱くなるのを感じつつも、邪念を理性の蓋でガッ! と押し込める。


 密着してくる美緒の両肩を掴んで距離を取らせた。


「所望しない! ったく……」


 明人はちっとも懲りない美緒に呆れてため息を吐きながら、横を通り過ぎた。


「んもぅ、つれないですねぇ――って、え……?」


 素っ気ない明人の背中を追い掛けようと手を伸ばし掛けた美緒。

 しかし、ピタッとその指先が強張って止まる。


「ん、どうした狐?」


「……」


 いつもなら軽くあしらわれた程度では意に介さずくっ付いてくる美緒だが、何故か玄関で佇んだまま動かない。


 不思議に思って明人が首を傾げるが、美緒は何も答えない。

 表情は徐々に暗くなり、目が伏せられる。

 素直に感情を表す狐の耳と尻尾が、すぅ……と垂れていく。


「お、おい……?」


「……」


 初めて美緒が見せる表情に戸惑う明人。


 さっき強く肩を掴みすぎたのだろうかと自身の行動を顧みるが、すぐに普段と変わらないあしらい方だったはずだと思い至る。


(い、一体どうしたんだコイツ……?)


 明人はリビングへ向けていた足を引き返し、美緒の傍まで戻る。

 だが、代わらず顔は伏せられていて、無言。


 ただ一つわかることは、元気がないということのみ。


「お、おい、狐……?」


 流石に心配になって手を伸ばそうとする明人。

 しかし、その手は美緒がようやく発した呟きによって止められることになった。


「……他の女の匂い」


 思わず背筋がゾッとするような、冷たい声だった。

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