第11話 狐を置いて向かう先

 土曜日。午前十時半頃。

 今日も相変わらず美緒は明人の家にいた。


「明人様、お出掛けですか? では私も――」


「――いや待て待て」


 明人が荷物をまとめて玄関に向かっていくのを見た美緒が付いてくる。


 だが、明人はそれを手で制した。

 首を傾げる美緒に、明人はため息交じりに言う。


「俺はこれからバイトだ。狐の同伴は認められていません」


「そ、そんなぁ……!」


 淡々とした様子で靴を履く明人に、美緒が不満げな視線を向ける。


「休日ですから、明人様と沢山一緒にいられると思っていたのに……」


「ふざけんな。お前は出て行け」


「ふふっ、イヤです」


 ったく、と明人は面倒臭そうに頭を掻く。


「あのなぁ。お前夜は俺に追い出されたあと公園とか路地裏とかで寝てるって言ってただろ? もうさっさと諦めて、実家に帰ったらどうなんだ?」


 明人も男だ。

 女子に好意を寄せられるのは単純に嬉しい。

 だが、こうもしつこく付き纏われ、家にまで押し入ってこられるのは迷惑というもの。


 明人は美緒に振り向かない。

 叶わぬ恋を追い続けるほど悲しいことはない。

 だから、美緒は明人を諦めて家に帰るべきだ。

 それが美緒のためでもある。


 明人の心の底からの本音であった。


 しかし、美緒は静かに首を横に振った。

 紫紺の瞳はどこか寂しそうな光を灯している。


「……私は、帰れませんよ」


「ん?」


「……ふふっ、何にせよです。私は明人様を諦めるつもりはありませんから」


「まったく……」


 一瞬美緒が見せた寂しげな表情が気になった明人だったが、今はバイトへ向かわなくてはならない。


「いってらっしゃいませ、明人様」


「お前は出て行ってくださいませ」


 明人はやはり「いってきます」とは言わずに、鼻を鳴らして玄関を出た。


 閉まった玄関扉をしばらく見詰めていた美緒。

 明人の気配が遠ざかったとわかってから、再び目を伏せた。

 口許はどこか自嘲気味に弧を描いている。


「帰れるわけがありません……もう、帰る場所など……」


 そんな呟きは、閑散とした部屋の中に虚しく響いた――――



◇◆◇



 明人のバイト先は『喫茶ルーナ』という名の喫茶店だ。


 明人が一人暮らししているアパートの建つ住宅街から、自転車で十分ほど南下した位置にある。


 喫茶店と謳ってはいるが、比較的遅い時間まで店を開いており、きちんとしたディナーメニューまで存在する。


 そして、何を隠そうこの店は洋介の祖父が営んでいるのだ。


 明人が景星館高校に入学した当初、バイトを探していたところ仲良くなった洋介に紹介されて今に至る。


「綿矢君、今日もお疲れ様」


「あ、マスター。お疲れ様でした」


 時刻は午後五時。

 今日、奏斗はこれで上がりだ。


 控室で喫茶ルーナの制服であるギャルソンエプロンを脱いでいると、この店のマスターであり洋介の祖父である月島信之のぶゆきが話し掛けてきた。


「いやぁ、毎度のことながら綿矢君は動きが良くて助かってるよ」


「いえいえ、そんな」


 確かにここで働く切っ掛けを作ってくれたのは洋介だ。

 もちろん凄く助かっているし、感謝もしている。


 だが、それ以上にマスターである信之が快く迎え入れてくれたからこそ、こうして明人は働くことが出来ている。


 恩返しというわけでもないが、明人はこの店の一戦力として最大限の働きをしようと思っている。


「ちなみに綿矢君。このあと時間あったりするかい?」


「えっと……はい。特に用事はありませんけど……」


 何だろう、と明人が首を傾げる。

 信之が遠慮がちな笑みを浮かべながら言ってきた。


「その、申し訳ないんだけどねぇ……また雪奈せつなちゃんが綿矢君に勉強見てもらいたいって言ってて……」


「あぁ、なるほど」


 月島雪奈――洋介の妹で、現在中学三年生。

 受験生だ。


 これといった特技のない明人であるが、勉強に関してはそれなりに出来る。


 そのため、勉強が苦手な洋介に代わって、これまでも何度か雪奈に勉強を教えていた。


「もし綿矢君さえ良ければ、今から雪奈ちゃんのところに行ってあげてくれないかな?」


「わかりました。良いですよ全然」


「おぉ、そうか! ありがとう。雪奈ちゃんもきっと喜ぶよ!」


 これで雪奈ちゃんに怒られずに済む……という信之の呟きが聞こえたような気がした明人だったが、気にしないでおく。


 明人は喫茶店の制服から私服に着替えたあと、店を出て隣接する二階建ての一軒家の前に立った。


 表札には『月島』の文字。

 玄関でインターホンを鳴らすと、優しそうな女性の声が聞こえてきた。

 洋介と雪奈の母親――美穂みほだ。


『あっ、綿矢君~! もしかして雪奈のために来てくれたの~?』


「はい。さっきマスターに頼まれまして」


『そっかそっか~、いつもゴメンねぇ~。さ、入って良いわよ? 玄関開いてるから』


「ありがとうございます。お邪魔します」


 明人は玄関扉のノブを掴んで引く。

 空いた扉の向こう側から、美穂が出迎えにやって来てくれた。


「いらっしゃ~い、綿矢君。さ、雪奈は部屋にいるから上がって上がって~」


 どうやら美穂は夕食の支度を始めるところらしく「もし何かあったら声掛けて~」と言い残して、キッチンへと消えていった。


 明人はそんな美穂へ軽く頭を下げてから階段を上る。

 二階に上がって手前から二番目の扉の先が、雪奈の部屋である。


 明人は扉を三回優しくノックしてから、声を掛けた。


「綿矢だけど、いるか雪奈?」


 扉の向こう側から一度ガタッと物音が聞こえてきた。

 それから少しして、内側からゆっくりと扉が開かれる。

 雪奈が姿を見せた。


「来てくれたんだ、綿矢先輩」


「ああ。マスターにまた勉強見てくれて言われてな」


「……そ。じぃじに頼んでおいて正解だった」


 相変わらず感情の起伏を感じさせないような喋り方をするこの少女が、月島雪奈だ。


 小柄で華奢な身体。

 肌は日焼けを知らないよう。

 緩くカールの掛けられたミディアムの髪は、洋介の兄妹なのだと感じさせる茶色。

 そして、やはり兄がイケメンなだけあって雪奈も非常に整った顔立ちをしている。

 どこか無機質な表情なのもあって、作り物めいた神秘的な雰囲気を纏っていた。


 そんな雪奈が、栗色の瞳をジッと明人に向けてくる。


「ん、どうした?」


「……何でもない。さ、入って?」


「ああ。お邪魔します」


 扉を大きく開けて明人を部屋に向かい入れる雪奈の口元は、微かに弧を描いていた――――

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