第08話 狐がいないと寂しい?

 終礼が終わり、放課後の訪れをチャイムの電子音が校内に告げている。


 明人がゆっくりと帰り支度をしていると、手早くカバンを片手に持って立ち上がった洋介が声を掛けてきた。


「それじゃ、明人。俺今日部活だから~」


 と、今日は一緒に帰れない旨を伝えてきた。


 洋介は入学時から軽音部に所属してギターを弾いている。

 なんでも、楽器を弾く男はモテるとのことで入部を決めたらしい。


 実に洋介らしい理由だ。


 明人はそんな洋介に「お~」と間延びした声で返事。

 洋介が足早に教室を去っていくのを見届けてから、明人も席を立った。


 机の横に掛けていたカバンを肩に担ぎ、ゆっくりと教室をあとにする。


(あの狐、ちゃんと出て行ったんだろうな……?)


 明人は今朝家を出る前、美緒に言った自分の言葉を思い出す。


『俺が学校から帰って来るまでにここから出て行けよ!?』


 返答は聞いていない。

 ただ、あのときの美緒の表情からしてその気がないだろうことは察せられる。


(ったく、めんどくさいな……)


 明人はそう心の中で文句を言いながら、教室をあとにする。


 その足取りは、心の声とは裏腹にいつもよりやや早いようであった――――



◇◆◇



「鍵、鍵っと……」


 アパートに帰って来た明人。

 玄関扉の前に立ち、カバンから家の鍵を取り出した。

 鍵穴に差し込み、回す。


 ガチャ、という小気味の良い解錠音。


(こうして鍵がかかってる時点で、あの狐は出て行ってないってことなんだよなぁ……)


 やっぱりか、と明人はため息を溢す。

 ドアノブを捻って扉を開け、玄関に入る。


 すると――――


「あっ、お帰りなさいませ明人様――」と、明人は美緒が出迎えてくるのを予想していた。


 そのために文句を言う準備もしていた。

 だが、予想に反して出迎えはない。

 家の中は非常に静かだった。


 一人暮らしを始めてから見慣れた光景。

 つい一昨日までの、当たり前の景色がそこにあった。


(あれ? アイツはどこ行った……?)


 廊下を進んでキッチン、リビングと見ても美緒の姿はない。


 もしかして図々しくも自分の部屋で寝てるんじゃないかと思い、自室の扉を開ける。

 だが、そこにもいなかった。


 洗面所やお風呂、トイレにも気配はない。


「……本当に、出て行ったのか……?」


 明人の呟くような問いに答える声はない。

 あるのは、この家に美緒はいないという事実。


 どうやって出て行ったのかはわからない。


 玄関の鍵は閉まっていたため、鍵を持たない美緒には施錠不可能。


 ありえないが、この三階のベランダから飛び降りて出て行った可能性も万一に。


 だかそれも、ベランダへ通じる窓は内側から鍵が掛けられているため不可能。


「んま、妖術使えるらしいしな。どうとでもなるか……」


 未知の術理だ。

 明人は二十一世紀の科学技術体系の中で生きてきた、ごく普通の高校生。


 美緒が出て行った方法を考えても真相にはたどり着けないだろう。


「ともかく、これでようやく平穏な日常が戻って来たってワケだ」


 明人は「はぁ~」と長くため息を吐いて、


「良かった良かった……」


 そう口にされた喜びと安堵の言葉は、心なしか寂しさを帯びている。

 玄関扉のドアチェーンは掛けられていなかった。



◇◆◇



「っと、そろそろ夕食買いに行った方が良いな」


 自室の勉強机で学校の課題をこなしてから、自主勉強を行っていた明人。


 一区切りついたところで部屋の時計を見て見れば、時刻は十八時を回っていた。


 生活費は両親から充分に支給されている。

 とはいえ、出来る限り節約するに越したことはない。


 夕方以降にスーパーの食品が割引されるのを知っているので、いつもその時間帯を狙って買い物している。


 明人は部屋をあとにし、キッチンへ。

 いつもそこの一角にやや大きめのサイズのショッピングバッグを掛けているのだ。


 しかし…………


「あれ、ないな……どこやったっけ……?」


 明人は基本使った物はきちんと元の場所へと戻すように心掛けている。

 だが、いつもの場所にショッピングバッグがない。


「まぁ、いいや。他のを使おう」


 少し辺りを見渡したが見付からない。

 明人は大人しく諦めて、他のショッピングバッグを手に取る。


 そうして玄関の方へ足を踏み出すと――――


 ガチャ。


「……え?」


 明人はまだ玄関に辿り着いていないのにもかかわらず、玄関扉の鍵が開く音がした。


 当然感じる、不安と恐怖。

 だが同時に、もしかしてという心当たりもあった。


 それは、無自覚に僅かばかりの期待も含まれていて…………


(まさか――)


「ふぅ、遅くなってしまいました……」


 開かれた扉から一人の少女が入ってくる。


 外出していたためか狐の耳と尻尾は仕舞われているが、紛うことなく美緒だった。


 その手には、今し方明人が探していたショッピングバッグもある。


「お、お前……」


「あっ、明人様! もうお帰りになっていたのですね!」


 明人の姿を見付け、美緒はパァと顔を明るくした。

 仕舞ってあった狐の耳も頭上からピンと立ち、尻尾も後ろで揺れている。


 そんな美緒が、すぐに明人のもとへ駆け寄ってくる。


 手に持っているショッピングバッグを見れば、何やら食材が詰められていた。


「帰りが遅くなってしまって申し訳ありません。ちょっと色々な場所を巡っていたものですから」


 ですがっ、と美緒は謝罪のあと、やや興奮気味にショッピングバッグを持ち上げてみせた。


「戦果は上場! 今夜は私がお食事を振舞って差し上げますねっ!」


「ふ、振舞うって……い、いやお前。その食材はどうやって……」


「あっ、こちらですか? 街は良いですね~。色んなところでお野菜やらお肉やらが売られていて……一体どこの商店で買えばいいのか迷ってしまいました。えへへ……」


「あ、あぁ、良かった。取り敢えず盗んではないんだな。良かった……」


 美緒が一体何をしでかすかわかったものではない。


 取り敢えず気付かぬ間に犯罪は犯していないことを確認できてホッとした明人。


 しかし、美緒は不満を訴えるべく頬を膨らませた。


「んもぅ、明人様ぁ! 私そんなことしませんよっ!?」


「いや、勝手に人様の家に入り込んでくる狐だぞ!? そりゃ多少は疑うわ!」


「ひ、酷いですぅ……」


 美緒は肩を落とし、頭上の耳を垂れさせる。


 そんな彼女を見た明人は、どこかホッとしたように口許を緩めた。 


(結局、出て行ったわけじゃなかったんだな……)


 そんなことを思っていると、顔を覗き込んできた美緒が不思議そうに小首を傾げる。


「明人様? どうして笑っておられるのですか?」


「えっ……?」


 明人は美緒に指摘されて初めて、今自分が笑みを浮かべていることを知った。


(お、俺、笑ってたのか? まさか、コイツが戻ってきて安心してた……!?)


 いやいやそんなワケ――と、明人はブンブンと首を横に振った。

 気持ちを切り替えて、苛立ち混じりの表情を浮かべる。

 そして、美緒に人差し指を向けて言った。


「ってか、そんなことより何で平然と戻ってきてんだよ! 出て行けっつったろ!?」


「そういうわけにはまいりません! 私は必ずや明人様を射止めて見せますのでっ!」


 美緒も負けじと明人をジッと見詰める。


 透き通るような紫紺の瞳は部屋の明かりを反射して煌めいている。

 その瞳孔に映るのは、明人の姿だけ。


「っ……」


 明人はなんだか視線を交えているのが居たたまれなくなった。

 顔を背け、心なしか熱い顔を片手で押さえる。


 自分の意識とは関係なしに早まる鼓動に苛立ちながら、小さく文句を呟いた。


「ったく、勘弁してくれ……」

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