第07話 世間知らずで常識知らずな狐

 明人が学校の食堂で昼食を取っている頃。

 明人の住むアパートの一室では――――


「はぁ、明人様。今頃何をされているのでしょうか……」


 美緒がリビングのソファーに一人腰を下ろしていた。


 テレビすら点いていない。

 リモコンの操作方法を知らないのか、はたまたテレビの存在を認知していないのか。

 部屋の中は極めて静かだ。


 そんな中、美緒は手持ち無沙汰な様子で狐の尻尾を右へ左へ揺らしていた。


「明人様がいないと、退屈です……」


 美緒は何となしに立ち上がると、ゆっくりと明人の部屋へ向かった。


 決して広くはないその部屋には、勉強机やベッド、本棚などが置かれている。


「はぁ~」


 ――ボフッ。


 美緒は明人のベッドの上に身体を倒れ込ませた。


 脚を曲げて身体を僅かに丸めると、キュッと掛け布団を抱くようにして掴む。


「……ふふ、明人様の匂いがします……」


 明人の匂いに包まれて、鼓動が鮮明にリズムを刻んでいるのを感じる。

 身体の芯から熱が生じ、それがじわじわと顔に溜まっていく感覚。


(抱き締められたら、こんな感じ……なのでしょうか……)


 美緒には夢がある。

 一番大きな夢は、やはり明人と結ばれること。


 だが他にも、数え切れないほどの叶えたい夢があった。


 明人と手を繋ぎたい。

 隣を同じ歩幅で、同じ速さで歩きたい。

 明人に褒められたい。

 優しく頭を撫でられたい。

 そして、抱き締められたいというのも夢の一つ。


 最終的な夢から、その過程における些細な夢まで様々。


 美緒は初めて明人と出逢った日から、それらを想像して過ごしてきた。


(ですが、明人様の心はなかなか私に向いてくださらない……)


 どれだけ明人に冷たくされても、雑にあしらわれても、美緒は挫けない。

 その程度で明人への想いを諦められない。

 だが、寂しくならないわけじゃない。


「明人様……」


 美緒の呟きが、明人の部屋に虚しく溶ける。


(一体どうすれば明人様に振り向いていただけるのでしょうか……)


 明人の気を惹くためであれば、美緒はどんなことでもやってのける覚悟だ。

 だが、積極的にアプローチしすぎても逆効果。

 今朝勝手に布団に潜りこんで怒られたことでよくわかった。


(迷惑をお掛けすることなく、明人様をドキドキさせられる何か……)


 美緒は「むむぅ……」と唸りながらしばらく考える。


 そして――――


「あっ、そうだ!」


 バッ、と美緒が何かを思い付いたように勢いよく身体を起こした。

 瞳には希望を感じさせる光が宿っている。


「今日の夕食、私が明人様に振舞って差し上げましょう!」


 明人が食材を切らしてしまっていると言っていたのを思い出した美緒。

 昨晩は充分に栄養が取れるとは言い難いカップうどん。

 今朝は食パンがないからと何も食べずに登校してしまった。


(私が食事の準備をして差し上げれば、明人様も喜んでくださるはずっ……!)


 そうと決まれば行動あるのみ。


 美緒はベッドから跳ねるように降り、明人の部屋を出る。

 キッチンの傍に掛けられていた大きめのショッピングバッグを手に取って、玄関へ。

 草履を履き、扉から出た。


「……」


 美緒はアパート三階の廊下を見て、誰もいないことを確認する。


(鍵を掛けずに留守にするわけにはいきませんからね)


 扉に振り向いた美緒が、鍵穴に人差し指を向けた。

 時計回りでぐるりと一周宙に円を描く。


 すると…………


 ガチャ。


 鍵穴に鍵を差していないにもかかわらず、確かに施錠された音が鳴った。


 これが妖術。


 そんな不可思議な術で閉められた扉を見詰めて、美緒は小さく微笑んだ。


(ふふっ、いつか私もきちんとこの鍵穴に鍵を差せるようになるんですから)


 美緒は三階廊下を進み、エレベーターの前まで来る。


 当然だがエレベーターは下の階から上の階へ、上の階から下の階へ移動するための昇降機。


 しかし、美緒の目にはそれが両開きの扉付きの怪しげな小部屋にしか映っていない。


(な、何でしょうかこれは……ボタン? の上に『1』と光の数字が書かれていますが……)


 美緒はボタンを押してみようかみまいか一考する。


(いえ、やめておきましょう。これでもし何か明人様にご迷惑が掛かるようなことになってしまってはいけません)


 美緒は振り返って階段を見る。

 次に、塀から顔を覗かせて下を見た。


 このアパートのベランダ側は比較的人通りの多い住宅街の道だ。

 しかし、アパートの入り口でもある階段側は表からは見えない。


(ん~、考えるまでもないですね)


 エレベーターの存在を知らない美緒。

 降りるための残された手段は階段。


 美緒はその選択肢に悩むのすら手間だという風に、平然とした表情で、


「よっ」


 塀から飛び降りた。


 アパートの三階。

 地上からは十メートル前後の高さがある。


 美緒は迷わずそこから飛び降りるというありえない選択肢を取った。


 スタッ、と地面へ軽やかに着地する美緒。


「さて、街には買い物出来る場所が多くあるらしいですから、早く見て回らないと日が暮れてしまいますね」


 この場には誰もいない。


 なので、十メートルの高さから飛び降りて平然としている美緒にツッコミを入れる者もいない。


 世間知らず常識知らずの女の子を一人にするとこういうことになるのだと、明人には知る由もなかった――――

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