第3話 帰還
震える指で力強くパドルを握り、水を掻く。
なんせ二度もひっくり返っているから、自信なんてないどころの騒ぎじゃなく、もの凄く怖い。
視力が悪いせいで、広い海原を前に細部がよく見えないのも余計に怖い。
絶対に負けるもんか
私は私に負けるわけにはいかない!!
恐怖を蹴散らすように、独り海を進む。
魔の横波に遭遇することなく、
そして安心するのも束の間。
前方。
西の方向から静かに横波が押し寄せているのが見えた。
ああああぁ、こ、怖い!
東のほうへ行って避けねば。
東に舵を切る。
すると、なんということだろう。
東のほうからも横波が押し寄せているじゃないか……
一体どういうことだ、これは……
ただちに漕ぐのをやめてその場に漂い、前方に繰り広げられる波を、目を細めてじっくり観察する。
進行方向陸に向かって、右からも左からも横波。
押し寄せてるんじゃなくて引いてる??
いや違う、寄せてる……
確実に分かるのは、高さはさほど高くはないが潮目がぶつかったところに波が盛り上がってごぼごぼいって、陸に向けて二本、並行に走っている事実。
つまり、押し寄せる波をガードレールみたいに左右に従えた、凪いだような水面の道が。
陸に向けてに真っ直ぐ存在しているということ。
その凪いだ道の幅は四、五メートルぐらいか?
パドルの長さが二メートルちょいだから。
なんだこれ……嘘でしょ……
足の
川遊びで真っ直ぐ進むのに苦戦した昼間。
もしも私が真ん中からずれて、波にパドルが触れようもんなら即アウト。
陸はまだまだ遠い。
転覆したらきっと再び外海に流される。
でも。
ここを通り抜けねば陸には帰れない。
ゔゔぅ! くそったれ!!
こんなとこで
死んでたまるか
死なせてたまるか
ふうううううぅぅぅぅ
よっっし! 行くぞ!!
パドルを手が白むほど握り締め、狭き潮の道へ。
私は漕ぎ出した。
『モーゼの十戒』
高い波ではないものの、私はそんなふうに思った。
まるで、時間が、世界中の音が、止まったような不思議な感覚。
ドクンドクンと鳴り響く私の心臓の音と。
左右から逆巻く波の、ずしゃあぁぁという波飛沫の音だけ。
生に続く凪いだ不思議なこの道を、ただひたすら真っ直ぐ、曲がらずに漕ぐ。
絶対に絶対に通り抜けてやる
私は死なない
生きて戻る
助けて 助けて
お父さん お母さん
守って どうか 守って
できる できる やれる
頑張れ 私
口に出して、繰り返し、呪文のように唱えながら。
自分自身が真っ白になって、ここにいるのに、このにいないような。
天に突き抜けんばかりの集中力、夢中で私は漕いだ。
そして、ついに潮の道を通り抜け。
永遠に感じられた賭けに勝ったんだ!
いいや、まだだ!
外海に残されたみんなに助けを! 死ななかったこの命、力の限り漕ぐんだ、急げ私!!
無事に浅瀬へと帰還を果たした私は、カヤックから飛び降り、それを陸へ引きずりながら、
「救助はどうなってる?!!」
と叫んだ。
「川西さんの家までシュウと走って行ったけど、奥さんがいないし、近所に誰もいないから帰ってきた」
ミカちゃんからとんでもない答えが。
ふっざけんな!!!!
バスタオルにくるまって砂浜にしゃがんでいたOLペアに、川西さんの鞄からトラックの鍵探しを指示し。
シュウとミカちゃんには、トラックの牽引を外したいから、ダッシュで先に行ってチャレンジしててと
私はライフジャケットを脱ぎ、眼鏡を自分の荷物から出して、ウェットスーツのままトラックへとよろよろと走る。
あーでもないこーでもないと、全員で協力して牽引が外れた。
OLペアには自力で三人が帰ってきたら迎えてやって欲しいと、留守番を任せる。
カヤックを積むトレーラーの牽引が外れることを知らないのも、オートマ限定免許なのも、高校生なのも、他人事なのも、全部仕方がないけど。
……だが!
誰もいなかったって諦めてすごすご帰ってくんな!!
ありえねえええ!!!
今度は人が見つかるまで手分けして探して、とシュウとミカちゃんを助手席に乗せる。
島ではギアの軽トラックが運転できないと仕事にならないので、居候先でたまに運転したりしたが。
あんまり得意じゃないとか、そんなこと言ってられん!
私は今度はパドルから、命の
行くぞ! エンジンをかけ、一本道をトラックで飛ばす。
トイレも電気もないような、この最西端の浜にこんな時間から車はほぼ来ないはずだが……
この狭い道では車は擦れ違えないので、少し曲がりくねって見通しの悪いところはそのままスピードを落とさず、クラクションをビービー鳴らしながら進む。
県道に出て川西さん家に到着し、奥さんを呼ぶと今回はすぐ現れた。
事情を説明して救助の手配を頼み、私たちはトラックに乗ってまた浜へと戻る。
空には夕暮れが広がり始めていた。
あっという間にこの夕焼けは最高潮になって、赤が濃くなり、暗い色が上から忍び寄るだろう。
トラックを降り再び砂浜に立つ。
カヤックにフィンをかき集めて積んで、彼らを迎えに海へ漕ぎ出すべきか。
いや、二次災害案件になるからここで待つべきだろう。
などと思案しながら、私は沖を見つめる。
海の向こうに漁船の灯りが見えたのと時を同じくして。
誰かが、見て! と叫んだ。
夕日に赤く染まった空と暗い海の境界線。
寄り添うようにひと塊になって、にょきりと突如浮かんだシルエット。
あの三人が自力でリーフに帰ってきて、海の中から立ち上がったのだ。
ああああ!! 助かった!!!
私は波打ち際を飛び出して、海の中をざばざば走って彼らに駆け寄った。
腕を組んで波に乗って帰ってきた三人に、お帰りなさいと。
私は誰よりも早く、言いたかった。
頑張ったねって、凄いねって。
帰還の喜びを分かち合いたかった。
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この浜は当時も今も携帯電話は使えません。
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