二〇三九年七月十八日 十二時十五分
防衛省市ヶ谷地区 内閣安全保障局本部
基幹エレベーター
3
「ひどい目に遭ったな」
和彦さんは片手で髪の毛を撫で付けながらわたしに言った。
「うん。まだ耳がキンキンする」
「マレス、髪は焦げなかったか?」
「たぶん、大丈夫」
雨宮さんがアフターバーナーを点火したとき、とっさに和彦さんはわたしのことを庇ってくれた。
一瞬熱は感じたけど、すぐに排気ダクトのファンが全開になったため、アフターバーナーの爆炎はわたしたちを焦がすまでには至らなかった。
なんか嬉しい。守られてる感じがする。
ここから先はさらに駆け足だった。
地下三十一階。
「ここは細かい装備を開発している場所だ。マレスが着ているリキッドアーマーのバリスティックベストもここで開発されたんだ」
地下三十階。
「ここはサーバールームだよ。見るべきものは特にない。でかいコンピューターが並んでいるだけだ」
地下二十九階。
「ここには官房秘書課と長官室がある。普段、俺たちは入れない」
地下二十八階。
「ここは官房文書課だ。何をしているのかは俺も知らん」
地下二十七階。
「ここは人事教育部、山口の巣だ。ここはマレスも知っているだろう?」
地下二十六階。
「ここには通信センターと遠隔指揮室が置かれている。遠隔作戦があるときは使うんだが、俺たちに遠隔作戦はないからな。ま、縁のないところだ」
地下二十五階。
「ここは通信準備室。ほとんど空きフロアだ」
地下二十四階。
「ここはマレスも知ってるだろう? シミュレータールームは使ったことがあったんじゃなかったか? ない? そうか。まあいずれ使うだろう」
地下二十三階。
「トレセンはいいよな? いつも使ってるから」
その後特務作戦群の居室と管理部の置かれている二十二階から二十階までをチラ見して、基幹エレベーターのホールに戻ってきたときは二人ともかなりぐったりしていた。
広い。広すぎる。それぞれのフロアが思ったよりも大きい。一階ずつ移動するからと階段を使ったのは間違いだった。これじゃあ、マラソンじゃん。
「もうすぐ一時か。飯の時間だな」
和彦さんは腕のクロノグラフに目を落とすと、わたしに言った。
和彦さんは今でも腕時計を使っている。最近ではデータグラスにミッションタイムも表示されるから時計は特に必要ないはずなんだけど、どうやら手放せないみたい。ひょっとしたらなんか思い出があるのかも。
「マレス、どこに行きたい?」
和彦さんはわたしに尋ねた。
和彦さんはいつも外で食事を取る。地区内でも食べられるのだが、外の方が好きみたい。
確かに、地区で食べているといつも誰かに声をかけられる。外なら知っている人に会うことも少ないから煩わしくないのかも。
「ルディーズ!」
わたしは即答した。
お肉が食べたい。それも真ん中が真っ赤で表面は黒く焦げてるルディーズのBBQが食べたい。おなががペコペコだ。
「ルディーズか。確かにいいな。富士ランチよりはずっとマシだ。じゃあ、肉を飽食しにいくか」
和彦さんは地上に向かうエレベーターを呼ぶボタンを押した。
+ + +
「マレス、午後は普通の課業に戻るぞ。今日の予定は銃を加えた上での格闘戦訓練だ」
エレベーターの中で和彦さんがわたしに言う。
「えー、でも、まだ全部見てないですよ?」
「もうほとんど全部見たよ。それに正直、俺はお腹一杯だ。かなり、疲れた。ちょっと身体を動かしたい。付き合ってくれないかな」
和彦さんが困った顔をする。
そんな顔をされたら逆らえない。
「判りました。でも、手加減なしですよ?」
「判ってる。今度は俺が勝ち越すさ。……ああ、ちょっと待て。もう一か所寄るか」
ふいに和彦さんは何か思いついたのか、一度押した地上のボタンをキャンセルすると十九階のボタンを押した。
「十九階?」
「ああ。もう一ヶ所面白いところがあった」
「十九階って、山口さんのおうち?」
わたしは和彦さんに尋ねた。
レディ・グレイの一件の際、山口さんは使われていない十九階に避難した。そういえばその後どうしたか聞いていない。まだあそこにいるのかしら?
「ああ、そうだ。あのバカ、まだいるみたいだからな。いい機会だから追い出してやる」
十九階は殺風景なフロアだった。
組織が拡大することを想定して、十六階から十九階までは空きフロアになっていると和彦さんが前に言っていたのを覚えている。
「あいつ、巣を作っていないといいんだけどな」
十九階で降りると、和彦さんは周囲を見回した。
だだっ広いフロアの中に、一部屋だけ区画されている場所がある。
「あの野郎、勝手に区画作りやがった」
和彦さんはずかずかと空きフロアを横切ると、片隅に作られた区画へと突進して行った。
空白のフロアは物置になっているようで、雑多なものがあちこちに積み上げられていた。
書類、なんだかわからない機械の部品、それに明らかに危ない段ボールの山。
「チッ。施錠してやがる」
フロアを仕切る壁に作られたドアノブを捻り、和彦さんが舌打ちする。
和彦さんはポケットからスマートフォンを取り出すと、どこかに電話をし始めた。
和彦さんの電話はわたしに支給されたスマートフォンと同じ、富士通製の軍用特殊スマホだ。
すべての通信はスクランブルされ、外部からの傍受はほぼ不可能、しかもラグダイズ加工されているため、相当なショックを受けない限りはまず壊れない。
オリーブドラブ色のスマホは可愛くないからあまり好きじゃないんだけど、これを使うのが義務だから仕方がない。和彦さんとお揃いだからまあいいか、って思って諦めてる。スプレーでピンク色に塗っちゃおうかとも思ったんだけど、叱られそうだからそれはやめた。
「……ああ、クレアか。悪いんだが、十九階の東ウィング、セクションBのロックを解除してくれないか?」
どうやら、クレア姉さまとお話ししているみたいだ。
「……そう、そこだ。そこにロックされている妙な区画があるだろう? ……そこのロックを開錠してくれ。山口が住み着いているんだ。中をチェックする」
カチリ。
ロックが解除される音がする。
「ありがとう。助かったよ、クレア」
続けて和彦さんは違う場所に電話し始めた。
「……ああ、山口。今、十九階にいる。今からお前の巣に踏み込むぞ」
なにやら山口さんが叫んでいる声が微かに和彦さんのスマホから聞こえてくる。
「ふざけるな。もうあのケースは閉じただろうが。……あ? 何を取っておいて欲しいんだ? 一応残しておくように努力はする」
和彦さんはしばらく言い争った後に乱暴に電話を切った。
「山口が来るってさ。勝手にドアを開けるなって」
和彦さんが肩を竦める。
「プライバシーの侵害だとさ。よく言ったもんだよ」
一分も経たないうちに息せき切った山口さんがエレベーターホールから飛び出して来た。
「和彦、お前がここに避難しろって言ったんじゃん」
「ああ、確かに言ったよ。でも、それはあのケースの中の話だ。もう終わったんだ。それなのにお前、なんでまだ住んでる?」
「そうは言ってもさ、もう前のうちは引き払っちゃったよ」
「そりゃ、自分の不明を呪うんだな」
和彦さんはにやにや笑いながら、山口さんのおうちのドアを開けた。
この二人は親友同士だ。山口さんは極めて数少ない、和彦さんのお友達だ。その山口さんに和彦さんがひどいことをするとは思えない。
「まあそんなこったろうと思ってな、市ヶ谷の駅前のマンションを一室押さえておいたよ。家賃は二十七万だ。しかも敷金と礼金は俺が穏便に交渉してナシにしてやった。安いだろう?」
「高いよ! お前、僕の台所事情を知ってるだろう?」
「不満だったら他のアパートに住んでくれても別に構わないぞ。キャンセルはいつでもできる。ただ、俺としては最善策を取ったつもりなんだがな」
「あ、あ、あの、お金だったら、ある程度ならご用立てしますよ」
あまりに可哀想だったから、わたしはおずおずと山口さんに申し出た。
「ああ、マレスちゃん。君は本当に優しいねえ。でも大丈夫、これは僕の問題だからね」
山口さんがわたしに言う。
山口さんはいつもきっちりとした格好をしている。髪にはきれいに櫛目が通り、服装にも隙がない。
だが、今の山口さんの様子はいつもとはずいぶん違っていた。
髪の毛は逆立ってるし、ネクタイも緩んでる。
「和彦、おまえ、もう少しマレスちゃんを見習いなよ。お前はどうしてそんなに僕に厳しいのさ」
「山口のためだよ」
しれっと和彦さんが山口さんに言う。
「お前、放っておくととめどなく堕落するだろうが。俺が抑えになっているのを感謝してくれ」
「よく言うよ」
憤懣やる方ない様子で山口さんが和彦さんを睨む。
だが、すぐに肩を落とすと山口さんは力なく言葉を発した。
「……まあ、そうかも知れないな。こりゃ、お互いさまだ」
「ああ」
和彦さんがドアノブに手をかける。
「開けるぞ」
「うん」
力なく山口さんが頷く。
「非認可営内居住はなかなか居心地が良かったんだけどなあ」
「非認可ってところがまずいんだよ。黒田長官に知れる前に撤収しないとな」
山口さんのおうちは綺麗に整頓されていた。
床にはキルトのフロアマットが敷かれ、片隅にはイケアかアマゾンで買ったと思しき木製のシングルベットが置かれている。
ベッドの反対側にはパソコンの画面を兼ねた小さなテレビ、入り口には冷蔵庫まで置かれていた。
でも、思いのほか持ち物が少ない。服はメタルラックに吊られたスーツとシャツしかないようだ。メタルラックの下には三つの籠。たぶん、一つは洗濯物、もう一つは綺麗な下着、そしてもう一つは毎日着る部屋着や寝間着。
小物類は冷蔵庫の上のトレイに綺麗にまとめられている。
「全部捨てていいんだろ?」
周囲をぐるりと見まわすと、和彦さんはにやにや笑いながら山口さんに言い放った。
「いや、小物類は取っておきたい。あと服も。他は、まあ、いいや。捨てる」
山口さんが大切そうに冷蔵庫の上に置かれた写真立てを折りたたむ。
写真立てには優しく微笑む女性の写真が収められていた。
山口さんの彼女なのかしら?
「ああ、これは僕の奥さんだよ。今はここにはいないけどね」
わたしの視線に気づき、山口さんが写真を見せてくれた。
静かに微笑む、優しそうな人。背景はどこかの桜。春に撮った写真なのだろう。
でも、今はここにはいないって、亡くなったのかしら。
無言のままのわたしを気遣ってか、山口さんが言葉を継ぐ。
「今は高軌道衛星のiPSホスピタル4にいるんだ。事件に巻き込まれてね、ちょっと、いや、かなりの大怪我しちゃったんだよ」
「……そうなんですか」
「そんなに悲しい顔しないでよ。僕は前途には結構楽観的なんだ。静はいずれ目を覚ますって思ってる」
「まだ、意識は戻らないのか?」
和彦さんの表情は沈痛だった。
ひょっとしたら、和彦さんも知っている人なのかも知れない。
「一度目覚める兆候はあったんだけどね、また昏睡しちゃったらしい。まだ脳機能が全部回復していないみたいなんだ」
「……そうか。早く戻ってくるといいな」
「そうだよ! 早くしてくれないと僕が破産する」
iPSホスピタルは高い病院だ。衛星軌道上の病院ともなれば、とんでもないお金がかかる。おじい様は万が一のためにもう予約したみたいだけど――ほんとに、気が早すぎ――、思ったより高かったってぼやいてた。
「まあ、そういう訳でね、僕は貧乏なんだよ。それなのにこの野郎、二十七万もするマンション勧めるって、一体どういう神経なんだよ?」
「だったら営内居住にすればいいだろう。幹部営舎だから個室だぜ?」
「嫌だよ、僕はあの起床ラッパの放送が嫌いなんだ。それに若造が朝からズカズカやってきて掃除されるのはもっと嫌だ」
市ヶ谷地区の片隅に作られた幹部営舎はわたしが見ても素敵な建物だ。
自衛隊幹部への襲撃を未然に防ぐために五年位前に新しく出来た営舎なのだそうだが、落ち着いた色調の幹部庁舎は普通のマンションと変わらない。しかも営内班の人たちがお掃除してくれるんだから致せり尽くせりだと思うんだけど、山口さんはどうやら違う意見を持っているみたい。
「じゃあ、仕方がないな。これでもこの辺では最安値だぜ?」
「まあ、探してみるよ。駅のほうに行かないで、反対側の早稲田の方に行ったら安いアパートがあるかも知れないし。……ついては、それまで泊めてくれない?」
山口さんが軽薄に和彦さんに向かって両手を合わせる。
「嫌だよ。だいたいお前の布団、もうないぞ」
一瞬ハラハラしたけど、和彦さんが断ってくれてよかった。
山口さんが来ちゃったら和彦さんと遊べなくなっちゃう。
「ま、しょうがないか。お邪魔になっちゃうもんな」
山口さんはさほど抵抗することもせず、ただ肩を竦めただけだった。
「あとで不動産屋に行ってくるよ」
ルディーズでのランチには山口さんも合流することになった。入院中にお世話したという口実で山口さんが和彦さんにタカったのだ。
なんかズルい感じだったけど、和彦さんは別に嫌そうではなかった。
「ま、確かにな。今日の昼飯は奢ってやるよ」
と山口さんに言うと、いつもの照れたような笑顔を浮かべる。
なんか可愛い。ぎゅってしたくなっちゃう。
山口さんの荷物を片付けた後、わたしたちは再び地上に向かう基幹エレベーターへとてくてく歩いていた。
「で? マレスちゃんはこの局舎を探検してたんだって?」
「はい。まだ全部見てなかったから」
案内してくれなかったのは山口さんなのだけど、それは指摘しないでおく事にする。
「じゃあさ、ついでに十一階で一度降りよう。あそこからならここの全容が見えるよ」
「ああ、確かにそうかもな。マレス、面白いぞ」
和彦さんも山口さんに同意すると、十一階のボタンを押した。
十一階? 十一階になにかあったっけ? 十一階は
そこは、エレベーターホールしかない小さなフロアだった。
エレベーターホールは分厚い防爆壁に囲まれ、ホールから中に入る鋼鉄製の扉はとても小さい。
普通のおうちのドアと同じサイズの、一人が通れるだけの小さな扉だ。違うのはただ一点、厳重に防爆加工されていること。ドアのロックはまるで銀行の金庫の様だ。
「いよっと」
山口さんが力を込めて防爆ドアの大きなロックを回す。
「マレスちゃん、こっちおいで。テラスになってるから」
山口さんがドアからおいでおいでする。
テラスに出てみると、太陽灯に照らされる十五階のキル・ハウスを上から見ることができた。
コンクリート製の建物が点在するフィールドが眼下に見える。
いつもは中で撃ち合いをしているから、上の方にこんなところがあるなんて知らなかった。
「へー、すごい。広いんですねえ」
山口さんの言う通り、ここからの眺めは壮観だった。
とてもここが地下の施設だとは思えない。
「マレス、あれがこの局舎の生命線だよ」
和彦さんはわたしの後ろに立つと、正面に見える大きな排気ダクトのようなものを指さした。
「あれが、この建屋の
確かに、ある。
地上の駐車場の横に立ち入り禁止区画があって、そこに三本の煙突のようなものが立っているんだけど、それがここに繋がってるなんて知らなかった。
「十五階の床は特に厳重にチョバムプレートと超硬コンクリートで守られてるんだ。だが、それだけだと爆圧で結局破壊されるとかでね、ここで一度圧を落として、爆圧を地上に逃がす。これで十五階から下は確実に護られるという訳さ。理研の
「まあ、
山口さんが和彦さんの言葉を継ぐ。
ふと気になって、わたしは山口さんにちょっといじわるな質問をぶつけてみた。
「核攻撃でも?」
大型のバンカーバスターなら核も搭載可能だ。可能性は低かったが、絶対にないとは言い切れない。
「うん。それについても安心してくれていいよ」
山口さんが説明してくれる。
「十五階と十六階の間は数字の上では一階層しか違わないんだけど、コンクリの厚みは十メートルを超えてるからね。しかも途中には中性子を通さない、純水を満たした層まである。この建物だったら小型核の直撃だって大丈夫なんだ。放射線はこの壁を絶対に超えられない。まあ、そんな攻撃を受けることはまずないとは思うけどね」
じゃあ、この局舎に立て籠っている限り、戦い続ける事ができるという事だ。
「……凄い」
思わず思ったことが口を伝う。
「うん。これが国家防衛の要、内閣安全保障局なんだ」
山口さんがにんまりと笑う。
「マレス、満足したか?」
と、和彦さんはわたしの肩に手を置いた。
「うん。満足した」
手すりを握って眼下を眺めながら、わたしは上の空で頷いて見せた。
「じゃあ、ルディーズに行こうか。腹が減って死にそうだ。……マレス、今日はあんまりパンに具を挟むなよ。またパンが崩れちまうぞ」
「大丈夫。和彦さんが入院してる間に何回か練習してきたし」
わたしはようやく満足して振り返ると、笑顔で二人に言った。
「じゃあ、ルディーズに行きましょー」
今日は何を食べようかな。
ブラッディ・ローズ Level 1.1『防衛省内閣安全保障局観光ガイド』 蒲生 竜哉 @tatsuya_gamo
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