第36話(完結)


「陽が沈むのがどんどん早くなるね」


 私は夏季の横に座って言った。


「お帰りなさい。あれ?片山さん、スーツ着てる」


「大阪からこっちに来るときに、一着だけバックパックに無理やり押し込んで持ってきたからヨレヨレだよ」


「そんなことないよ。片山さん、カッコいい。あっ、それよりお母さんたちを見つけてくれてありがとう」


 夏季は顔の前で拝み手をして言った。


 そして拝み手をそのままにしながら俯いてしばらく動かなかった。


 夏季は泣いていた。


「泣くなとは言わないよ。お母さんたちの住んでいるところが分かったんだからな。夏季が会いに行きたいと言えば、僕が責任をもって連れて行くから大丈夫だ」


 夏季は拝み手を解いて、私の胸に泣いている顔をぶつけてきた。


 激しい嗚咽で身体は震えていた。無理もないことなんだ。


 母と弟と離れ離れになって十数年、父を気遣ってたった一度だって会いたいとは言わなかった夏季。


 優しい心と強い意志を持った女の子だと私は思った。


 陽が沈み、隅田川の向こうのスカイツリーにイルミネーションが点灯して回りはじめた。


 私はその美しい光景を眺めながら夏季の身体を抱きしめた。


 涙が枯れたのか、夏季の震えは止まったが、私の胸に顔をうずめたまま動かなかった。


 私たちははすっかり暗くなった隅田川べりでしばらく身体を寄せ合っていた。


「早く帰らないとお父さんが心配するよ。平日は晩ご飯を作らないといけないんだろ?」


 時刻はもう17時半近くになっていた。


 平日の夜なので川べりには人が少なく、カップルを数組見かけるだけだった。


「片山さんから連絡をもらって、すぐにお父さんに連絡したからいいの。友達と図書館で勉強して何か食べて帰るから、お父さんも適当に晩御飯食べてねって」


 夏季はさっきまで泣いていた顔をあげて、勝ち誇ったような表情で言った。


「お父さん、可哀想だな」


「そんなことないよ。いつも私がキチンと作ってるんだから、たまにはいいの」


 夏季は断言した。


「じゃあ、お母さんと弟さんのことでたくさん報告したいことがあるから、どこかで食事しながら話をするよ」


「嬉しい!どこに行こう?」


 夏季は嗚咽したことなど嘘のように満面の笑みを浮かべて言った。


「前に行ったPINOっていう店に行きたいな」


 私は提案した。


 夏季と初めて入ったイタリア料理店である。


「美味しいパスタのお店があるの」と、夏季が勧めただけあって、店の雰囲気も味も申し分なかった。


「うん、じゃ行こう!」


 そう言って夏季は立ち上がった。


 私の前にスッと立ち上がった夏季の姿は、これまで長い間、母と弟と離れて暮らした悲しみのトンネルから勢いよく抜け出たかのように私には映った。


 夏季の向こうに聳え立つスカイツリーは美しく鮮やかに輝くイルミネーションを、隅田川の川面に映していた。


 だが、私はスカイツリーよりも夏季の美しさ、可憐さに心が震えた。


「スカイツリーなんかメじゃないな。夏季の方が圧倒的だ」


 そう言って私は立ち上がり、夏季を思い切り抱きしめた。


「そんなにキツく抱いたら痛いよ」と夏季が言った。


 ゆっくりと身体を離し軽くキスをした。


 だが今夜はこれまでの堰止めをはずして、深く夏季の息を吸い込んだ。


 彼女の心まで吸い込んで、もう決して離したくないと思った。


「夏季、絶対に離さないからな。覚悟しろよ」


 唇を離して宣言した。


「こんな激しいキスされたら、私もう片山さんから離れられない。絶対に離れない」と夏季も言った。


 それから私たちは隅田川べりから土手に上がり、言問通りの方へ手を繋いで歩いた。


「お母さんと弟さんの居場所が分かったんだから、もう鉄火場に馬券を買いに来ちゃダメだぞ」


「片山さん、感謝し切れないくらい感謝してるけど、私が馬券を買うのとは関連性がないよ」


 生意気に夏季が反論したが、考えてみればその通りだ。


「関連性って・・・、難しいこと言うんだな。好きにすればいいよ」


「わ~い、嬉しい。菊花賞には自信があるんだ」


 夏季は言問通りを飛び跳ねるようにに歩きながら言うのだった。


 私はもう鉄火場ガールには何も言う気が起きなかった。


 浅草寺を左に見て通りを歩きながら、私は背後に光り輝いているスカイツリーを決して振り向かなかった。


 何故なら、隣の夏季の方がずっと輝いているから。


ー 完 ー

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鉄火場ガール 藤井弘司 @pero1107

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