第34話


「すっかりお客さんにプライベートな話をしてしまったわね、ごめんなさい」


 春代は少しだけ赤くなった顔で謝るのだった。


「いえ、ご自身のことをこんな一見客に話をしてくれて、ほんとに嬉しいです。僕のこれまでの冴えない人生も披露したくなってきたけど、もう遅いから」


「いいわよ、時間なんて。まだ十一時半じゃないの。ときどき日付が変わっても、お客さんによっては店を開けている日もあるから」


 春代も私も友達と話すような感覚になっていた。

 そういう気さくな雰囲気を彼女は持っていた。

 

 おそらくこの店はそこそこ繁盛しているに違いない。


 ツンと気取ったところがなく、話し上手だし訊き上手でもある。

 料理も悪くないし、料金も良心的、これで繁盛しないわけがない。


 春代はカウンター内に戻り、片付けをはじめた。

 小雨が降る音だけが微かに聞こえていた。


「実家はこの近くですか?」


「そう、この先の商店街の向こうなの」


「なぜ実家に住まないの?」


「大阪に就職していた弟が結婚して実家に帰ってきて、両親と住んでいるのよ。家は広いけど、そこに私たち親子が同居するのは、気持ちが窮屈だし気を遣うのよ」


 春代はあっさりとした口調で説明した。


 春代と弟との現在の暮らしぶりや実家の状況もある程度分かった。


 夏季にはたくさんのことを報告出来そうだ。

 夏季の喜ぶ顔が目に浮かんだ。


 春代の口から、別れた夫への恨みに該当する言葉はひとつも出なかった。


 春代は私のような全く利害関係のない客がある日突然やってきて、プライベートな部分を語りだしたことで、自分の身の上話を披露した。


 でもきっと、普段はこの宮津の常連客や一見客が来たとしても、決して別れた夫や娘のことなどは口にしない気がした。


東京から出張で店に来た一見客だから、警戒心を解いて語ったに違いない。


 私はそう思った。


 小さな町だから、離婚して息子を連れて東京から実家に戻ってきたことが噂にもなったことだろう。


 肩身の狭い思いに陥ったこともあったかもしれない。


 いやおそらく、様々な苦しみや嫌な思いの繰り返しだったことだろう。


 でも、春代は暗さの欠片も感じない堂々とした生き様だと私は思った。


 さて、そろそろ店を退いて宿に帰ろうと思っていたところ、入り口がガラッと開いた。


 そこにはジャージ姿の丸刈り少年が立っていた。


「どうしたの、あんた。先に寝ていたらいいじゃないの。すみませんお客さん、息子の秋雄なんですよ」


 春代は再び私に丁寧な言葉で言った。


「こんばんは」


 息子は軽く頭を下げて挨拶をしてきた。


 浅黒い賢そうな顔をした少年は、中学三年生にしては立派な体格だった。


「ちょっと遅いからあと片付けを手伝おうと思って・・・」


「そんなのいいって言ってるでしょ、明日も朝から練習するんでしょう。帰って早く寝なさい」


 息子は何か運動をしているようだった。


 私はカバンからスマホを取り出した。


「ママさん、今夜は良い酒だった。ちょっと悪いが記念に写真を撮ってくれませんか?」


「ああ、いいですよ。こんな店でも楽しんでくれたら私は嬉しいですから」


 春代は洗い物の手を休め、エプロンで手を拭きながら出てきて私のスマホのカメラを受け取った。


 私はビールグラスを手に持ち、顔の辺りに掲げた。

 私のポーズを春代は慎重に撮った。


「今度は僕が撮らせて。ママさん、息子さんとそこに並んでください」


 息子をママさんの隣に立つように誘導して、私はスマホのシャッターを押した。

 念のため二枚撮った。


 息子はキョトンとしながらもピースサインまでしてくれた。


 夏季の母・春代と弟の秋雄の写真撮影も出来た。


 夏季の大喜びする顔が目に浮かんだ。


「ありがとう。また来ます。お元気で」


 お勘定を済ませて私は店を出た。


 傘を持っていなかった私に、息子は自分が持ってきていた傘を手渡すのだった。


 このように礼儀正しく素直に育てあげた春代は立派だ。


 今日まで、きっと辛く苦しいこともたくさんあっただろう。


 別れた夫に連絡を取りたい、力を借りたいと何度も思ったはずである。


 私は静かに降り続ける小雨の中、宿に向かってゆっくり歩いた。


 街はすべての家々や商店の明かりが消えてしまっていた。

 ところどころに立つ街灯だけが心寂しく舗道を微かに照らしていた。


 夜になると本当に寂しい町だ。


 このような町で夫と娘と別れたあと、ひとりで息子を育てて生きてきた春代は凄いなと、素直に私は思った。


 ところがそのとき、なぜかうしろから春代が駆けて来た。


「お客さん、ちょっと待って」と言いながら小走りに近づいてきた。

 忘れ物などないはずなのだがどうしたのだろう。


「これ、宮津名産の黒ちくわとかまぼこ。少しだけど持って帰って」


 春代は持っていたひとつの袋を私に差し出した。


「どうしてこんなものまで・・・」


「いいのよ、いろいろと話を聞いてくれてありがとう。それから、あの人によろしく言っておいてね。娘のこともいつも心配してるからってね。そして、私はなんとか元気にやっているからって。じゃあね、ありがとう」


 春代はそう言って立ち去った。


 私が礼を言う間もなく、身を翻して行ってしまった。


 私は呆然と佇んだ。春代は気づいていた。


 なぜなんだ?


 どういうわけか感付かれてしまったようだ。


 道理でいろいろと喋ってくれたわけである。


 初対面の客に、あんなには次々とプライベートな事柄を話さない。

 どうしてそんなことに気がつかなかったのだろう。


 きっと春代は途中から、私が別れた夫から頼まれて様子を見に来たと思ったののだろう。

 しかし春代さん、何故なんです?


 でも頼まれたのは別れたご主人ではなく、あなたの娘さん、夏季からなんですよ。


 私は春代のうしろ姿が見えなくなるまで見届けた。


 そしてそれから宿の方向へ、まるで戦い疲れた兵士のようにふらつきながら歩いた。

 途中で雨は降り止んだ。


「春代さん、あなたの素晴らしい勘には参りました」


 私は濃紺の夜空に向かって声に出して呟いた。


 翌日、宿をチェックアウトしたあと、昨夜借りた春代の息子の傘を店の入り口にそっと立てかけた。


 少し名残り惜しい気持ちで私は宮津をあとにした。


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