第33話
ふたりとも黙ったまま、私はビールを、夏季の母・春代は冷酒を飲んでいた。
この店だけがどこか遠くの小さな島に存在しているような感覚になった。
そんな沈黙の中、春代がカウンターにグラスを置くときの「コトリ」という音だけが、ときどき私を現実に引き戻した。
春代は私との話の成り行きで夏季の父親、つまり別れた夫のことを思い出しているのだろうか、しばらく黙ったままだった。
私は彼女の誤ったお世辞が発端で、これまでの人生の不甲斐なさに苦虫を噛み潰していた。
おそらくふたりの沈黙が十数分続いた。
今夜はこのくらいで引きあげよう。
そして明日もう一度店に来て、もっと突っ込んだことを訊いてみようかとも思ったが、夏季が知りたかった母と弟の居場所についてはすでに判明している。
帰ろうか、或いは他のことを訊いてみようかと思ったとき店の電話が鳴った。
春代は立ち上がって受話器を取った。
「ちょっと久しぶりに来られたお客さんがね・・・ハイハイ、大丈夫だって。先に寝てなさい。戸締りちゃんとしてね・・・お弁当は朝作るからね・・・ハイハイ」
電話は春代の息子、つまり夏季の弟からのようだった。
「息子からなのよ。ごめんなさいね、気になさらないで。時間の方は大丈夫だから」
電話を切って再び冷酒グラスを手にして春代は言った。
「息子さんは何年生ですか?お父さんに会いたいって言いませんか?」
私はさりげなく訊いてみた。
「子供がお父さんに会いたいと言ってきたら、そのときは東京にいる元夫に連絡するかもね。でも実はね、もうひとり息子の上に女の子がいるのよ。息子より三歳上だから、もう高校三年生かな」
「えっ、別れた時におふたりが子供さんをひとりずつ引き取ったってことですか?」
私は白々しいことを言っているなと、少しだけ後ろめたさのようなものを感じながら訊いた。
「子供はふたりとも私が引き取って宮津に連れて帰るつもりだったの。でも、娘は絶対に渡さないって、夫が断固として譲らなかったのよ。どうしてるかなぁ、息子は秋雄なんだけど娘は夏季っていう名前」
春代は遠くを見るような表情で軽くため息交じりに言った。
「大丈夫ですよ、夏季は女子高生のくせに競馬好きでレモンサワー好きだけど、勉強熱心な立派な高校生に成長していますから」と、私は酔った勢いで言ってしまいそうになった。
でもわずかに残った正気と理性とで「ナツキさんって、いい響きの名前ですね。どんな漢字なんですか?」と訊いた。
「生まれたのが七月三十日でね、暑い夏の真っ盛りだったの。だから夫が夏だから夏の季節でいいじゃないかって、夏季なのよ。息子も同じ、秋に生まれたから秋雄ね」
春代は笑いながら説明した。
しんみりとしたり笑ったり、感情表現が豊かな女性だと私は思った。
「夏季さんか、いい名前です」
「ありがとう。どうしてるのかなって、最近は特に思うのよ。でもねえ、会いに行くわけにもいかないし」
そう言って、春代は小さなグラスの冷酒を飲み干して、もう一杯グラスに注いだ。
春代はさっき息子から電話がかかってきたあともすぐに店じまいに取り掛かろうとはせずに、味わうように冷酒を飲み続けていた。
小さなグラスを口元に運ぶたびに、別れた夫や夏季のことを考えているようにも思えた。
今夜この店を訪ねてきたことによって、古井戸の底に沈んでいた記憶を、私が無理やり汲み上げてしまったのかも知れない。
「良い人だったんだけどね、その・・別れた夫ね。でもよく分からない仕事をしていてね、自分で何かを作っていたのよ。付き合っていた仕事仲間も変な人たちで、何て言うのかな、ちょっとヤクザみたいな感じだったの」
私は相槌を打ちながら、そう言えば夏季の両親が離婚した原因については船木のマスターも触れなかった。
春代の話が続いた。
私ビールを少しずつ喉に流し込みながら耳を傾けた。
「普通の勤め人になって欲しいと言ったら、そんなものにはなれないってハッキリ言ったの。だから将来に不安を感じたし、ある日とうとう何を作っていたかが分かったのよ。それでもう駄目だと思って別れることにしたの」
春代の言葉にどう言葉を挟んでよいものか分からず、黙って話を聞いていた。
作っていたものは「オナホール」と夏季から聞いて知っていたが、もちろん私は言わなかった。
春代は何故かもっと話を続けたそうだった。
私も店を引き揚げ難い気持ちになっていた。
「女手ひとつで生きていくって大変ですよね。でも立派にお店をやっているし、別れたご主人もきっと安心しているんじゃないですか。たまには連絡をとっているんですか?」
「それが、別れてからお互いに一切連絡を取っていないのよ。でもきっと私のことや息子のことをずっと心配しているに違いないの。連絡を取りたくても我慢していると私は思っているの。だって、私の方も夏季のことが心配だし、彼に連絡したいけどずっと耐えているんだものね」
言葉の最後のあたりで春代は少し「フフッ」と笑いながら言った。
時刻は午後十一時をかなり過ぎた。
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