第32話
「ご自宅はこの近く?」
私はさりげなく春代に住所を訊いた。
「そう、道路を渡ってすぐ前のアパートの二階なのよ。徒歩三十秒ね。だからいいのよ、遅くなっても」
春代は気さくに笑いながら答えた。
夏季の母と弟が住んでいるところも、これでほぼ判明した。
店と住所が分かったら、もうこれ以上無理をして訊くこともないと思ったが、私はまだもう少しこの店にいたい気持ちになった。
それほど居心地の良さを感じる店であり、春代の優しく穏やかな雰囲気がそう思わせるのであった。
「静かですね。まるで深夜みたいだ」
「そうね。宮津は毎年夏の観光シーズンだけなのよね。夏が終わると一気に静かになるのよ」
春代としんみりと人生の悲哀を語り明かしたい気持ちになるほど、本当に静かな夜だった。
「さっき『私と同じ独り身』って言っていたけど・・・」
「そう、ひとりよ。寂しいわよね、相方がいないと」
ため息をついたような表情で春代は言った。
「ママさんのような素敵な人が、なぜひとり?僕ならママさんのような奥さんがいたら、それこそ二十四時間寝ないで働くと思う」
「本当に寝ないで働いてくれるの?」
春代は冷酒の入ったグラスを持って中から出てきて、私が座っている席からひとつだけ間を置いて座った。
着物の襟首のあたりにドキッとするほどの色気が漂っていた。
私には夏季という競馬好きな少女の「恋人?」がいるが、実はあなたのお嬢さんなんですよと言いたい気持ちを抑えた。
春代と並んで飲んでいると、夏季の可憐さが生意気にさえ思えてくるのだった。
それはもちろんアルコールの酔いと、春代のおとなの雰囲気に惑わされそうになっているからではあったが、それほど彼女は魅力的だった。
彼女がウイスキーではなく冷酒を飲んでいるのが不思議だった。
ウイスキーグラスを持って「少し愛して、長~く愛して」と言って欲しいと思った。
私はますます酔って変になってきた。
「息子がね、ひとりいるのよ」
少しの沈黙のあと、春代がため息混じりに言った。
「えっ、息子さんが?でもそれじゃご主人とは・・・」
私は白々しいなと思いながらも訊いた。
「ご主人様とは結婚して五年ほどで別れてしまったのよ」
春代は「フフッ」と鼻で自嘲気味に笑いながら、少し投げやりな口調で言って冷酒のグラスを口に運んだ。
私は次の言葉の選択に戸惑い、ビールのグラスを何度も口に運んだ。
「昔私ね、東京の大学に進んだの。両親は京都あたりの大学に行けってうるさかったんだけど、何故か東京に行きたかったのよね。親の言うことを聞かなかったから仕送りが少なくてね、学生生活は居酒屋さんでアルバイトしながらだったのよ」
「東京にいたんですね。物価や家賃が高いですからね」
「そうね。大学生活は楽しかったけど、バイトはほとんど毎日出てたし、身体を壊してしまったりね。そんな時に店のお客さんが親切にしてくれてね、私のことを好きだ好きだって熱心に口説くのよ。だから勢いで結婚しちゃったのよ」
春代は笑いながら言った。
「学生のまま結婚?」
「そう、彼は仕事をしてたけど、何かよくわからない仕事。それでもしばらくは大学を続けていたけど、すぐに妊娠したちゃったの」
「えっ?結婚しても大学に行ってたんですか?」
「そうなんだけど、お腹に赤ちゃんができたから、さすがに中退したのよ。宮津の両親にも結婚は伝えていたけど、猛反対。でも赤ちゃんができたって言ったら、親もしぶしぶ認めてくれたの」
春代は冷酒グラスをコトンとテーブルに置いて、昔を懐かしむような表情で淡々と語った。
春代はいったんカウンターの中に入り、もう一本小さな冷酒の瓶を持って出てきた。
今度もウイスキーではなかった。
私は彼女に「ウイスキーは飲まないのですか?」と訊いてみた。
「なぜ?」と春代は首を傾げた。
「昔のテレビコマーシャルに、少し愛して、長~く愛してっていうのがあったから、それを言って欲しいと思ったんですよ」
「アハハハ。面白い人ね、お客さんって」
春代は不思議そうな顔で私をジッと見たあと、数秒間考えてから声をあげて笑った。
そんなに面白いことを言ったつもりはなかったのだが、意外に大笑いだった。
「初めてのお客さんなのに、込み入った話をしてしまってごめんなさいね。でもお客さん話がしやすいのよね。その飄々とした感じが・・・きっとお客さん女性にモテるでしょ?」
春代は酔っているふうには見えなかったが、突然わけの分からないことを言いはじめた。
私が女性にモテるはずがないではないか。
三十歳を過ぎても、これまで恋人がいたこともなく、会社も辞めてしまったし、何ひとつ構築していない私は、誰がどのような角度から見てもだめな男だ。
いや待てよ、ひとつだけ感謝してもらえるかも知れないことがある。
それはほかでもない。
今年の初夏に場外馬券売り場で知り合った夏季、彼女の母と弟の居場所を捜すために今ここ宮津にやって来たことだろうか。
時刻はもう深夜十一時近くになっていた。
耳を澄まさないと分からないほどの静かな雨音だけが聞こえていた。
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