第31話
魚喜を出たあと、夜の宮津の街をふらつきながら歩いた。
東京と違って街灯の数は圧倒的に少なく、少し離れた国道を車が走行するときのヘッドライトの明かりが、ときおりサーチライトのように舗道を照らしていた。
ふらつきながらもどうにかこうにか夏季の母・春代が営むと訊いた店にたどり着いた。
店は路地の三叉路の角にあって、入ってみると店内はカウンター席のみ十席程の小ぢんまりした感じだった。
ウイークデーの夜ということで店には男性客がふたりいただけで、その客たちも、私が店に入ってから十五分程で帰ってしまった。
夏季の母から直接話を訊くには絶好の条件となった。
でも私はかなり酩酊していた。
「魚喜」で生ビールをたて続けに何杯も飲んでしまったのがいけなかった。
「春代さん、娘さんからの依頼であなたの近況を訊きに来ました。住所はどちらですか?」
危うくそう宣言して、手帳を左手に、ペンを右手に持ってメモをとり始めてしまいそうなくらい私は酔っていた。
和服に割烹着を羽織った母はかなりの美人で、四十歳過ぎの年齢よりは若くは見えなかったが、大昔の洋酒メーカーのコマーシャルで囁く女優みたいだった。
私は夏季の父が一直線で彼女に惚れてしまった理由を、ひと目見ただけで理解できたような気がした。
「いらっしゃい、どうぞ」
夏季の母はおしぼりを手渡しながら、「何を飲まれます?」と訊いてきた。
私は彼女の色気に圧倒されて、頬をピシャリと叩かれた感じになってしまい、「ビールを」と返事した声が少し嗄れていたのが自分でも分かった。
一気に酔いが醒めそうだった。
「お客さんはどちらから宮津にお越しですの?」
母は低いカウンター越しに差し出した手の着物の袂をつかみながら、お通しと箸やすめを私の前に置き、首を傾げて訊いてきた。
「地元の人間じゃないって、すぐに分かるんですか?」
「そりゃあ、もちろん分かるわよ。商売をしている女の勘ね」
夏季の母・春代は「フフフ」と笑った。
自分で言うのもなんだが、私だって昔から割と「勘」は天性のものを持っていると自負しています。
春代さん、貴方には負けません。
「東京から出張なんです。観光物産会社のサラリーマン。お菓子や饅頭などの食べ物ではなくて、つまりその・・・ほら、手ぬぐいとか、暖簾とか巾着とか・・・それから観光地の名称を書いた提灯なんかもあるでしょ。そんなものを作っているんです」
「出張で営業ですか?」
「そう、売り込み」
「じゃあ、あっちこっちに出張に行かれるのね」
「北は北海道から、南は沖縄まで。これまで行ったことのない都道府県は秋田県だけ」
「秋田って有名な温泉地が多くなかったかしら」
「そうなんだけど、秋田だけは別の担当がいるから、これまでチャンスがなかったんです。秋田美人のお酌で地酒を楽しむことだけが実現していません」
私は思いつくままに大ボラを吹いて喋った。
「そんなにあちこち仕事で行かれたら奥様も大変ね。月に何日くらい出張に出られるの?」
「奥さんなんていませんよ。まだ三十過ぎだし、独身だからこんな仕事が出来るのかも知れません」
私は「あなたの娘さんが好きなんです。年齢はひと回り以上も離れてるんですけど」と、酔った勢いで言いそうになったが、かろうじて踏みとどまった。
「じゃあ私と同じ独り身なんだ」
春代は「独身」とは言わずに「独り身」と言った。
その言葉の響きがとても素敵に聞こえた。
何か飲むように勧めると、「ビールよりも日本酒をいただこうかしら」と春代は言った。
「ジャンジャン飲んでください。僕も今夜は綺麗なママさんに酔うから」
「おかしな人」
私と夏季の母・春代はカウンターを挟んで飲んだ。
確か店は午後十時半ごろまでだと、「魚喜」の店内係の女性が言っていたはずだ。
「もうそろそろ閉店の時間じゃないのですか?」
春代は小さなグラスで冷酒を飲んでいた。
「いいのよ、私んちはすぐそこだから」
そう言ってカウンターの中から出てきて、外に出していた暖簾を店内に入れた。
小さな雨音が聞こえてきた。宮津の夜はいつの間にか雨になっていた。
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