第30話
宮津市役所の一階インフォメーションの近くにある公衆電話のところに、京都府北部版の電話帳が置かれていた。
宮津市内には糸井姓の電話番号は四件掲載されていた。
一応それらをメモしてから予約していたビジネス旅館にチェックインをして、部屋に置かれていたお茶を淹れてひと息ついた。
今夜は花束の送り主となっていた「魚喜」に早めの時間帯に客として入って、まだ店が忙しくない間に夏季の母と弟のことについて慎重に聞いてみよう。
宮津市内の糸井姓を電話帳から控えたが、魚喜で手掛かりを得るしか夏季の母と弟の所在割り出しの方法は無いと思った。
夜まで時間があるので宿を出て、WEBで確認していた「魚喜」の場所だけ確認に向かった。
魚喜は宿から宮津駅方向に少し戻って、二筋南へ道路を下った魚屋町通りにあった。
まだ16時過ぎだったので店には準備中の札が掛かっていた。
場所を確認したのでそのあと宮津湾の方へ歩いた。
国道百七十六号線を渡ってさらに歩くと島崎公園という広い公園があり、その向こうに宮津湾が見えた。
公園では平日の夕方でも子供たちや親子連れが遊んでいて、背景の美しい海と山とのコントラストが私の心を落ち着かせる。
宮津市は人口約一万八千人の小都市で、地場産業といえるものは特にないようだが、天橋立や丹後由良海水浴場などの観光産業が市の収入源となっているとあり、確かに宮津湾と海を取り囲む山などの景観の美しさは素晴らしかった。
観光船の桟橋近くでしばらく宮津湾を眺めてから、17時になったので魚喜に向かった。
魚喜に着くと入り口の札が先ほどの準備中から営業中に替わっていた。
店の入り口は格子戸になっていて、ガラっと開けると店内は意外に広く、テーブル間のスペースも広くとっていて、ゆったりした雰囲気の店だった。
「いらっしゃいませ」
愛想のよい和服姿の女性に迎えられ、私は意識的に目の前に調理場が見えるカウンター席の最も奥の位置に座った。
屋根が高く、テーブルやカウンターをはじめ、店内のものすべてに高価そうな木材を使ったなかなか立派な店の造りである。
店には板前さんが三人と店内係の女性がふたりいた。
ひとりは明らかに五十歳はとうに過ぎている女性で、もうひとりの女性は二十代の前半とみられ、夏季の母の年齢は多分四十歳過ぎだろうから、その年齢にあたる女性はいなかった。
まだ時間も早く、客は少なかったので、ビールと料理を適当に注文してから、混み合わないうちに年配の方の店内係に訊いてみた。
「久しぶりに東京から出張に来たのですが、ここに糸井さんという方はいらっしゃいませんか?」
私はもうあれこれ考えずに正攻法であたろうと思った。
「ああ春代さんのことですかね。お客さんはお知り合いですか?」
「かなり昔なんですけど、東京で懇意にしてもらっていた時期があったものですから。確かご主人と別れて田舎に帰られて、魚何とかというお店にいるとか聞いたもので」
もし夏季の母があとからやって来たとすれば私の嘘がバレてしまうが、悪意で聞き込んでいるわけではないのだから、その時は正直に事情を話そうと思った。
「春代さんは離婚したあとも江田さんのままですよ。こっちに帰って来てからうちで働いてくれていたんだけど、二年ほど前にお店を出したんですよ。お知り合いなら行ってみられますか?」
和服姿の愛想の良い店の女性は、私をまったく不審がりもせずに親切に言うのだった。
せっかくだしこのあと少し寄って帰りたいからと、店の名前と場所を訊いてメモをした。
店はおそらく十時半くらいまでは営業しているはずだが、お客さんの具合によっては遅くまで開けている様子とのことだった。
店内係の女性に夏季の母の店を教えてもらったあとも、私はしばらく「魚喜」で飲み続けた。
店をできるだけ遅い時間に訪れて、閉店間際まで飲むためだった。
遅くまで粘って酔いつぶれたふりをして、相手を安心させていろいろと訊きだす作戦なのだ。
ところが魚喜で夜九時前まで飲んでいたら、私は本当にすっかり酔ってしまった。
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