第26話


 翌日の日曜日、私の担当フロアは四階だったが、夏季は昼を過ぎても姿を見せなかった。


 昨夜は浅草ラーメンで私は生ビールを、夏季はレモンサワーを二杯ずつ飲んで店を出て、いつものようにマンション近くまで送って行った。


「すぐにシャワーを浴びて歯を磨くんだぞ。コロンを持っていたら少しだけつければ完璧だ」


 彼女がアルコールを飲んでいることが父にバレると大変だから、私はいつものようにアドバイスをした。


「分かってるって、大丈夫だよ。お父さんはオンナとお酒飲んでいつも酔ってるから、私のことなんか気にしてないよ」と夏季は言った。


 毎週土曜日がそんな状態では、夏季の家庭環境にはやはり大きな問題があると私は思った。


 別れ際に近くに人がいないことを確かめてから強く抱き寄せ、軽く触れる程度のキスをして別れた。


 強くキスを交わすと帰せなくなってしまう自分を分かっていた。


 相手はまだ女子高生である、無謀なことは出来ない。


 夏季は後ろを振り返ることなくマンションのオートロックの向こうに消えた。


 昨夜はいつもの別れ方だったはずだが、夏季は今日、午後のレースがいくつか終わっても現れなかった。


 女子高生がこんなところに来るなと普段言っておきながら、いざ姿を見せないと心配している自分がおかしいが、何かあったかも知れないと思って休憩時間に電話をかけてみた。


 呼び出しコールが十回程鳴っても出ないので、切ろうと思った時に夏季は電話に出た。


「ごめんなさい、すぐに出られなくて」


「どうしたの?」


「どうもしないよ。今、すぐ近くの中央図書館にいるの」


 夏季は少し早口で囁くように言った。


「図書館?」


「そう、ちょっと調べ物があったし、共通一次試験まで3ヶ月を切ってしまったから」


「勉強熱心でいいね。もしかしてお父さんに叱られたのかなって思ったから。ともかくホッとしたよ」


「大丈夫だよ。もう少ししたらそっちへ行くね」


「いや、無理に来なくていいよ。勉強が第一だから」と私は言った。


 理由が分かったのだから、今日は来ない方がいい。


 ところが夏季は「行くの。今日のメインレースは自信があるんだから」と言う。


「競馬と勉強とどっちが大事なんだよ?今日は夕方まで図書館にいて、それから家に帰ったらどう」


 父の恋人が来ている時でも、たまには自分の部屋にいることも大事だと私は思った。


「だから嫌だって何度も言ったよ。オンナが土曜日の夜だけ泊まるのは仕方がないけど、日曜日は一緒にいたくないの」


 夏季は小さな声だが怒り口調で言うのであった。


「じゃ、好きにしたらいいよ。今日は四階にいるから」


「分かった。すぐ行く」


 電話が切れた。


 大学受験を翌年に控えて、休日に図書館で勉強している女子高生が、日曜日のメインレースの予想を語り、そして場外馬券売り場にやって来るという。


 私がこれまで持っていた女子高生という概念に於いて、夏季はとっくにイレギュラーな存在になっていたが、それにしても彼女をひとことで表現する言葉が見当たらないほどである。


 私は少しクラクラする頭を何度か左右に振ってから、四階の持ち場に向かった。

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