第21話


 その週の水曜日の夜、私はさりげなくマスターが営んでいるという「フナキ」という店に立ち寄ってみた。


 隅田川沿いをさらに下流の方へ歩き、駒形橋を越えた江戸通りの東側の並びに店はあった。


 フナキは船木と店の入り口の古板に書かれていた。


 イチゲン客でも躊躇なく入れそうな店の立地に安心して、私は知らないフリをして店などを開けた。


 店内はコの字型にカウンター席が10ほど並んでいて、奥の方には座敷席も見えたが、ともかく空いているカウンター席に腰をおろした。


 夜の七時ごろだったのでカウンター席は半分程埋まり、奥座敷からは客の笑い声が聞こえた。


「瓶ビールをお願いします」と、お通しのきんぴらごぼうとオシボリを持ってきた女性に言った。


 マスターはカウンターの向こうのキッチンのさらにその暖簾の奥で料理をしているようだった。


 間もなく運ばれてきたビールをグラスに注ぎながら、目の前にある本日のおすすめと書かれたメニューからおまかせ刺身三点盛りを注文した。


 ビールをグラスに二杯目を注いでいた時に、マスターが暖簾の奥から揚げたての天ぷらを持って出て来て、それを店の女性に手渡してこちらを向いた時に目が合った。


「おお、アンタは馬券売り場の」


「あれ、ここはマスターのお店でしたか?」


 私は目を意識的に見開いて、少しオーバーかも知れないと思うほどの驚いた表情を演じた。


 するとマスターは「まあ、うちは常連さんも多いけど、フラッと入って来る客もけっこういるからね。特に外人さんの観光客とかね」と言って笑った。


 私は故意にやって来たと思われていないことにホッとした。


「どこに住んでるのかね?」


 カウンターの向こうで、包丁で何かを切りながらマスターが訊いた。


「南千住です」


「それで、今日は仕事帰りかね?」


「いえ、平日は働いていないんですよ」


 マスターは私が注文したおまかせ刺身三点盛りをカウンター越しに差し出しながら「あそこの土日の仕事だけで食っていけるとは結構なことじゃないか」と言った。


「平日の仕事を探しているところなんですよ」


 そう言ってビールを飲み、ホタテの刺身をひと切れ口に入れた。

 新鮮でしっとりとした食感で旨かった。


 私は久しぶりの刺身を味わいながら、瓶ビールをもう一本とだし巻き玉子を注文した。


「まあゆっくりしていきなよ」とマスターは言って、再び暖簾の向こうに消えた。


 奥で天ぷらや焼き物などを調理しているようだった。


 ビールを飲みながら、夏季の両親のことや弟について、こちらからさりげなく話題に出すタイミングや切り出し口を考えたが、うまい方法はまったく思い浮かばなかった。


 まさかマスターは私とまだ高校生の夏季との関係を疑ったりはしないだろうが、彼女の父はこの店の古くからの常連と聞いたので、チャンスがなければ無理して切り出さずに帰ろうと思った。


 だし巻き玉子が出来上がり、女性スタッフが運んできた時、マスターが調理場から出てきて「アンタのおかげであの子が俺らの近くに居ることができて、感謝してるんだよ」と言った。


「えっ、あの子って、記入台の近くによく立っている女の子のことですか?」


「そうだよ。少し前に他のスタッフがあの子に未成年じゃないかって訊いてたけど、あの子、片山さんにちゃんと伝えてますって言ってたよ。そのスタッフ、ああそうって言って、それ以上何も言わなかったからね」


「そうなんですか」と私は言って、特に興味がないフリをした。


 時刻は夜八時半ごろになって、奥の座敷の客たちが帰り、カウンター席には私を含めて三人になった。


 手が空いたマスターはカウンター越しに私の前に立ち、「あの子、土日は行くところがなくてね。これからも頼むよ」と言った。


「はあ」と私は曖昧に応えてもう一本ビールを注文した。


 瓶ビールを二本空けて少し酔いを感じたが、メニューから茄子の一本漬けをお願いして、「マスターはあの子のことをよくご存知なんですね」と切り出してみた。


「まぁね、あの子の親父は昔はうちの常連客だったんだよ。今じゃ盆と正月くらいにしか顔を見せに来ないけどさ」


「昔の常連さんで、今はたまにしか来られないのは何か事情でもあるんですか?」


「古い話でな。アンタ、興味あるかい?」


 マスターは店の女性スタッフに生ビールをくれと言ってから私に訊いた。


 店はマスターと女性スタッフと二人で切り盛りしていた。

 まだ学生にも見える若い女性である。


「お聞きしたいですね」と私は言った。


 思いもよらない展開になった。

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