第18話


 夏季がもうひとつ分かったことがあるというのは、母の旧姓であった。


 夕食を終えたあとしばらく父は酒を飲んでいたらしいが、夏季が母の故郷について訊くと「日本海の見えるところだ。糸井の実家に戻ってるかもな」と言ったらしい。


 そして、糸井とは地名ではなくて母の旧姓だと父は言い、それから自室に戻ったとのことだ。


 だがしかし、旧姓が糸井ということと日本海が見える町だけでは大して手がかりにはならない。


「お母さんの旧姓が糸井さんって分かって良かったね。実家は日本海の見えるどこの町かは、そのうちお父さんが教えてくれるんじゃないかな?」


「どうだろう?この前は何気なく訊いたのよ。でもそんなに度々は訊けないし・・・」


 親子のことなのに遠慮せずに訊けばいいと思うのだが、第三者が分からない事情があるのだろう。


「ともかくそろそろ帰らないと。明日は無理して来なくてもいいからね」と私は言ってベンチから腰をあげた。


「また毎回同じことばかり言うんだから。明日は秋華賞があるんだよ、自信あるの。本命はこないと思うの。だから穴狙い」


 こんな言葉が飛び出す女子高生は、世界広しといえども、おそらく夏季くらいのものだろうなと私は呆れた。


 時刻はもう19時近くにもなっていた。


 隅田公園の遊歩道に上がってから振り返って、川向こうのスカイツリーをもう一度眺めた。


「どうしたの?」と夏季が言った。


「夜のスカイツリーって本当に綺麗だなと思ってね。隅田川の向こうに聳え立っている景色は最高だな」


「そうね」


「大阪にはこんな立派な電波塔は無いんだよ」


 大阪には通天閣という有名な展望台があるが、電波塔ではない。


 周辺は最近でこそ観光客が増えて様変わりしてきたが、私が愛媛から出てきたころは、その日の仕事にアブれた浮浪者があちこちでワンカップ片手に座り込んでいる光景などをよく見かけたものである。


「大阪に一度行ってみたいな」と夏季は言った。


「そうだね、オトナになって自由に動けるようになったら行ってみるといいよ。とんでもないところだから」


 私は笑いながら言った。


 だが夏季は「片山さんが連れて行ってくれるんじゃないの?ガックリだよ」と言うのであった。


 私たちは言問通りに出て国際通りの方へ肩を並べて歩いた。


 いつの間にか私の片手は夏季に握られていた。


 途中から浅草寺に入って、行き交う多くの人々の様子や秋の夜空を仰いだりしながらゆっくりと歩いた。


「僕たち、場外馬券売り場で初めて言葉を交わしてからどれくらいになるかな?」


「う~ん、三ヶ月と少しくらいじゃない?」


「そうだよな。そして君は高校生だ。これから大学受験も控えてるんだろ?僕のようなアルバイトの三十男と手を繋いで歩いている場合じゃないよ」


 私は繋いだ手を離して言った。


「何言ってるのか分かんない。大学入試なんて簡単だし、馬券を当てるほうが難しいよ」


「バカなことを言うんじゃないよ。それでどこの大学を受けるの?」


「言わない」


 私たちは伝法院通りから浅草演芸場の前を通って国際通りに向かった。


「晩ご飯はどうするんだ?」


「片山さんは?」


「僕はコンビニで何か買って帰るけど」


「じゃあ牛丼食べて帰ろうよ」と夏季は言った。


 それも悪くないなと思って、私たちはすぐ近くにある牛丼チェーン店に入った。


 バイト先の場外馬券売り場は道路を挟んで目の前である。

 十二時間後にはまたここに来ないといけないのだ。


 私たちは殆ど会話も無く食べ終えて店を出た。


 いつもの場所まで送って行って「じゃ、またね」と私は言った。


「また明日でしょ」と夏季は反論し、さらに「私、片山さんのこと好きだから!」と投げつけるように言って背を向けた。


 その背中に向かって少し大きな声で「僕だって同じだ。好きだよ!」と私は言った。


 だがその時すでに夏季は、マンションのオートロックの向こうに姿を消していた。

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