第17話


 ここニ週ほどの土日が、五階フロアのボヤ騒ぎや六階では客の転倒事故などがあってやれやれと思っていたら、いつの間にか十月に月が替わっていて、この先は毎週のようにグレード1(G1レース)が行われる。


 秋競馬真っ盛りとなると来館者もどっと増えて来た。


 そんな中、ある土曜日に午前中に姿を見せなかった夏季が午後から現れて、「少し分かったことがあるの」と言う。


 分かったこととは他でもない、十年以上も会っていない母と弟の居どころについての情報である。


 この日の業務が終わって閉館のあと、私は急いで着替えをして誰よりも早く職場を出た。


 いくら早く着替えをしても17時15分ごろになるので、この時期は隅田公園に着いたころにはとっくに陽が沈み、隅田川の川面にはスカイツリーのイルミネーションが投影されて光っていた。


 夏季はいつものベンチで待っていた。


「日が暮れるのがどんどん早くなるから、この場所で待ってもらうのは危険だな」


 私は夏季の横に座って言った。


「何で?」


「何でって、女子高生を暗いところで待たせられないよ。変な奴が多いからね」


「大丈夫よ。川沿いはライトがたくさん灯っているし、川向こうにはスカイツリーが光ってるんだから」


「でも、暗くなっても娘が帰って来ないとお父さんが心配するだろ?」


「だから、前にも言ったよ。土曜日は友達と会って、晩御飯も食べて帰るってお父さんに言ってあるから大丈夫だよ」


 夏季はひと回り以上も歳上の私に対して完全なタメ口で言った。


「分かったよ。夏季がここでいいって言うならこれまで通りでいいよ。でも、これから寒くなってきたら、待ち合わせはコーヒーショップとかにしような」


「うん、そうしよう。コーヒーショップがいいな。片山さん、いろいろ心配してくれてありがとう」


 いつものように急に素直になったりする夏季だった。


 目の前の隅田川では、週末を楽しむ多くの客を乗せた屋形船が東京湾の方へゆっくりと流れていた。


 穏やかな光景である。

 

 屋形船に乗って東京の夜景を楽しむ人々のこころは、きっと平穏なのだろう。


 私と夏季の今の生活状況やこころの状態は決して平穏ではない。


「それで、ちょっと分かったことってどんなことなの?」と私は訊いた。


「うんこの前ね、お父さんに何気なく、お母さんって東京に住んでないよね?って訊いてみたの」


「それで」


「東京なんかにいねえよって」


「何だ、それだけなの?」


「違うよ、ちゃんと最後まで話を聞いてよ」


 夏季は少し憤慨気味に言った。


「ごめん」と今度は私が素直に謝った。


「お父さん、その日すごく機嫌が良かったのよ。あとで訊いたら、オナホールの大口注文が入ったんだって」


「へえ~、大口の注文がね~」


 私は夏季に相槌を打ちながら、彼女の口からオナホールという言葉が、何のためらいもなく出ることに戸惑いを感じるのであった。


「だからね、これまでお母さんと弟の居場所のことなんて一度も訊いたことがなかったんだけど、この前は晩ご飯を食べながら無意識のうちに訊いちゃったってわけ」


「お母さんと弟がどこにいるのって、ストレートに?」


「そう」


「ところで、夕飯はいつも夏季が作るの?」


「そうだよ。料理はまあ得意だし好きだから」


「ふ~ん、料理好きの競馬好きの女子高生か~」


 私は堪えられずに笑いながら言った。


「もう、何で笑うの?話の腰を折らないでよ!」


 今度は本気で怒ったようだった。


「ごめん」ともう一度私は謝った。


「お母さんって、日本海が見える町に生まれ育ったんだって。高校を出て東京の大学に進んでイナカを出たらしいの」


「そうなんだ」


「うん、東京に出て来てどこかでお父さんと知り合ったのね」


「どこで知り合ったのかは訊かなかったの?」


「そこまではね、訊けなかった。お父さん、少し酔ってきて、翌日も仕事が忙しいからって寝室に入っちゃったの」


「じゃあ、日本海の見える町がお母さんのイナカということだけ分かったの?」


 日本海が見える町と言ったって、それこそ何百ヶ所もあるだろうし、仮にそこが分かったところで、母や弟の居場所の手がかりにはならないと私は思った。


 だが夏季は「それだけじゃないよ。もうひとつだけ分かったことがあるの」と言った。

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