第16話



 マスターが営んでいるという「フナキ」という店に、平日の夜に偶然を装ってフラりと立ち寄ってみるからと、私は先日夏季に伝えた。


 だが、夏季の母と弟の居所について、マスターにどのように切り出せばいいのだろうかと考えているうちに、早くも二週間が過ぎてしまった。


 その間、館内ではちょっとしたボヤ騒ぎや客の転倒事故などが起こったり、慌ただしい土日が続いて、夏季と言葉を交わす機会がほとんどなかった。


 ボヤ騒ぎ事件は、馬券が外れた客が腹いせに、吸っていたたばこを燃えるゴミ専用箱に投げ捨てて立ち去ったものと思われた。


 その日は五階担当だったが、客のひとりが「ニイちゃん、ごみ箱が燃えてるよ!」と発売窓口近くにいた私に知らせてくれた。


 慌てて駆けつけてみると、柱ごとに設置されている燃えるゴミ用と空き缶や瓶などの専用ゴミ箱の、燃えるゴミ箱のほうから煙がモウモウと上がっていて、客たちは遠巻きに眺めていた。


 私は近くに緊急用に置かれている二リットルペットボトルに入った水をまずゴミ箱にかけてから、喫煙所の裏側に置かれている消火器を手にして消した。


 途中からもう一人のスタッフも手伝ってくれたので、一階の本部から職員さんたちが慌てて駆けつけた時には火は完全に消えていた。


「誰が投げ捨てたんでしょう?」


 職員のひとりが言ったが、そんなもの分かるはずもない。


「監視カメラが回っている範囲だと思いますから、あとで見てもらえませんか」と私は言った。


「ひでえことしやがる。いくら馬券が外れて腹が立っても、こりゃあやり過ぎだ。犯罪だよこれは」


 客のひとりが言った。


 そのとおりである。


 こういう客がいるから競馬や競輪やその他ギャンブルをする人間は精神性が低いとみられがちなのだ。


 もう一件の騒動は対面発売窓口がある六階で起こった。


 発売機や払戻機が並んでいる途中に数か所だけ、中の女性スタッフが客と直接対応しながら馬券を売る窓口が設けられている。


 機械操作が苦手な高齢者がその窓口を利用するのは自然なことである。


 転倒事故はその窓口の真ん前で起こった。


 発売窓口や払い戻し窓口などが並んでいる位置から二メートル半ほどのところには、オッズ表示やレース実況中継を行う天井から吊らされたモニターが数メートル間隔で並んでいる。


 実況中継でレースが四コーナーを回って直線に入りゴールが近くなると、モニターを見ている客たちの中には興奮して大声で叫んだり、手にした新聞を振り回しながらエキサイトする客も現れる。


 六階の対面窓口あたりの常連客のひとりで、開館と同時に来て、第一レースから最終レースが終わるまでずっと一か所のモニターの近くで立ったまま一日過ごす中年の男性がいた。


 スタッフの間でも話題になっていたのだが、ほとんど毎レースでゴール前の接戦になると中継モニターを観ながら叫ぶのである。


「いけ~、そこだ!追い込め!そのままそのまま~」などとモニターを観ながら絶叫する。


 彼は周りの常連客などと言葉を交わすこともなく、ひとりで黙々と馬券を購入しオッズ表示を眺め、レースをエキサイトしながら観ている。


 ある日曜日の午後、メインレースの実況中継が行われていた時だった。


 いつも絶叫する彼が、ゴール前のデッドヒートの際に叫びながら仰向けに倒れた。


 周りは騒然となり、倒れた際に後ろの客に少し寄りかかり気味だったので後頭部を強打することはなかったが、意識が朦朧として立ち上がれない。


 すぐに我々スタッフが駆けつけて無線で応援と車いすを依頼、同時に本部から救急車手配を依頼したようで、倒れてからわずか二十分後には病院に向かったようだが、ひと騒動であった。


 あとで常連客のひとりが言っていたらしいのだが、そのレースは結果的に大穴となって、彼はその馬券を買っていたのだそうである。


 場外馬券売り場は様々な出来事が起こるが、そんなふうにここ二週は慌ただしく過ぎていった。


 そして翌週の土曜日、久しぶりの四階フロア担当になった。


 ところが午前のレースが終わっても夏季は現れなかった。


 もちろんこんなところに女子高生が来ないほうが良いのだけど、どうしたのかなと思っていたら午後になって二時ごろにフラりとやって来た。


「今日は来ないのかなって思ってたけど」


 私は近づいて声をかけた。


「オンナが昼からくるってお父さんが言ってたから、午前中はゆっくり部屋にいたの。ごめんなさい」


「いや、謝らなくてもいいよ。ここには来ないほうがいいんだから。それより、例の件まだ進んでなくてごめん」


 六番柱の常連客に聞こえないように耳元で私は言った。


「大丈夫、無理しないで」と夏季は言い、そのあと「ちょっとだけ分かったことがあるの」とも付け加えた。


「聞きたいな」


「じゃ、今日終わったらいつもの場所にいるから」と夏季は言った。


「うん、行くよ」と私は言ってその場を離れた。


 持ち場に戻りながら、私と夏季の関係はまるで恋人みたいだなと一瞬思ったが、すぐにその思いを打ち消した。



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